京都府出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
自らの感情を前面に出したフォービズム的な画風で裸婦などを中心とした人物画や根岸、浅草などの風景画を描いた作品を多く残しています。
その作風から「和製ゴッホ」とも呼ばれていますが、誰かに師事した事はなく、全て独学で習得したものでした。
ちなみに名前は「としゆき」が本来の読みですが、「りこう」と名乗る時もあったそうです。
祖父、父親ともに俳号を持つほどの俳人で、祖父に至っては淀藩稲葉家に召しかかえられた俳諧師で南陽の俳号を持っていた事から、長谷川利行も同人誌を自費発行して詩歌や小説を発表する文学青年でした。
結婚して南海電車運転手として働いていましたが事故を起こしてしまい、その事が原因で離婚となると上京し、大衆小説などを書いて暮らすようになります。
ある日、独学ながら絵を描くようになると1~2時間ほどでれっきとした油絵を仕上げてしまうという天才ぶりを発揮し、アトリエを構えず、思い立ったら絵を描くというスタイルで次々と作品を生み出し、展覧会に出品するなどして少しずつ名声を高めていきました。
しかし、長谷川利行の日常生活は浅草などの貧民街で一日中絵を描いているか、絵を売ったお金で酒を飲み、生活に困った時は知人などに無理やり絵を押し付け借金をしたり、岸田國士ら著名人宅に押しかけて絵を描いては金をせびるなど、生活は荒れていました。
そのため、長谷川利行を知る人たちは長谷川利行の話題を口にする事がほとんどなく、これまでも長谷川利行の行動については分かる事が少なく、長谷川利行の才能が評価されるようになったのは長谷川利行の死後数年経ってからの事でした。
そんな長谷川利行にも良き理解者・天城俊彦が現れます。
天城俊彦は新宿で画廊を営んでおり、長谷川利行の個展を頻繁に開催していました。
それでも長谷川利行の酒癖は変わらず、安酒を飲み過ぎたせいで胃潰瘍となってしまい、それは後に胃がんへと発展し、路上で倒れ東京市養育院に収容されてしまいます。
病状はとても悪化しており治療が必要な状態でしたが、長谷川利行は治療を拒否し、そのまま息を引き取りました。
その後、天城俊彦に長谷川利行の死が知らされると、その遺骨を引き取ったそうです。