1842-1913
明治期に活躍した京都出身の日本画家
長年に渡って東京芸術学校(現在の東京藝術大学)の教授を務め、晩年には川端画学校を開設するなど後進の育成に尽力し、明治の画壇を先導した教育者として多くの門下生を輩出しました。
略歴
1842年 京都の蒔絵師の子として生まれた玉章は、幼い頃より父に蒔絵を習ったり絵を描いたりすることが好きだったそうです。幼いながらもその画才で周囲を驚かせていた玉章は、11歳の時に円山派の祖・円山応挙の孫弟子にあたる中島来章に入門して本格的に絵を学び始め、24歳で東京に移住、日本における洋画の開拓者・高橋由一に油絵を学んでいます。
元号が明治に変わると、文明開化の思潮から職を失って困窮を余儀なくされていた伝統画家たち然り、玉章の生活は苦しくなり新聞の付録画や油彩による眼鏡絵などを描いて日々を凌ぐようになります。
貧しい生活を送りながらも円山派の画家との親交が深かった三井家の庇護を受けながらチャールズ・ワグナーに洋画を学ぶなど、日々画力の研鑽を重ねていった玉章は、晴れて第一回内国勧業博覧会(1877年)にて褒状を授与、次いで第一回内国絵画共進会(1882年)出品、同第二回において銅賞を受賞するなど、次第に頭角を現すようになります。
1890年には岡倉覚三(天心)やフェルノサが新たに開校した東京美術学校の円山派の教授に迎えられ、その後22年にわたり主に写生の指導にあたりました。
他にも玉章は、画塾同士の交流を図り、日本画改革の舞台ともなった日本青年絵画協会設立に貢献、後身の日本絵画協会の発展にも尽力し、さらには改革派を離れて日本美術協会の重鎮としての活躍をみせ、文展では開設以来の審査員も歴任しています。
こうした玉章の献身的な取り組みと後進の誘導は「模範とすべき優れた画家」として明治政府にも認められ、当時の美術界において最高の名誉と権威を示すとされた帝室技芸員に選出されました。
皇室による保護と奨励を受けて技術の伝承を担い、より大きな理念と責任を背負うことになった玉章は晩年、東京は小石川に川端画学校を創立しています。
当初、日本画家を養成する目的で開設されたこの画塾では、山中敬中や島崎柳塢らが指導にあたりましたが、玉章自身が亡くなった後も藤島武二を主任教官とし洋画部が併設され、1945年太平洋戦争時、空襲により焼失・廃校となるまで、向井潤吉や横山操など、その後の日本画界をリードする著名な芸術家を多く輩出しました。
玉章の画業
円山派の伝統を重んじた川端玉章は、時同じくして東京美術学校で教鞭を執っていた橋本雅邦とたびたびライバルとして評され、当時からすでに画壇の龍虎などと称されるほどの大家でした。雅邦が狩野派を継承し横山大観や菱田春草ら日本美術院系の画家を輩出したのに対し、玉章は円山派の流れを汲み、同美術院に対峙した平福百穂や結城素明らを育てたという点でも両者は好対照をなしています。
花鳥山水画や風景画を得意とした玉章は、とにかく絵を仕上げるのが早いことでも知られ、常軌を逸するとまで言われたほど始終机に向かって絵を描いていたと伝わっています。そのことを証明するかのように現在でも数多くの玉章作品が遺されています。
また、古い慣習に縛られることを嫌った玉章は、日本画だけでなく、西洋画の新しい写実技術を学び、自らの作品に取り入れることで、伝来する日本画に新たなジャンルを築き上げ確立させることに成功しました。