下総国(茨城県)出身の明治~昭和時代前期に活躍した日本の洋画家です。
本名は倉持子之吉といい、初代・芳柳の次女と結婚し、2代目を継ぎました。
小さい頃から絵を描くのが得意で、上京して初代・五姓田芳柳の門に入り、五姓田義松の弟子になって洋画を学びました。
来日中であった英国美術通信員のワーグマンの師事も受け、初代・芳柳の画風を受け継いでいきます。
明治美術会の創立会員となり、パリ万国博覧会で褒状を受け、洋画と日本画を融合させた幅の広い画を展開し、晩年は肖像画の他に歴史風俗画を多く残しました。
明治神宮外苑にある「聖徳記念絵画館」の壁画の制作の中心リーダーをつとめ、日本赤十字社特別社員で、同社の依頼も多数引き受け制作しています。