中国・江蘇省宜興市出身の中国の画家、油彩家で、学者肌の画家とも呼ばれ、林風眠が提唱した「中国と西洋芸術の調和」を出発点として「林・呉体系」に発展させ、独特の「呉派」を作りだし、林風眠後の中国新芸術の代表画家の一人として知られています。
また、清華大学、北京芸術学院、中央技術美術学院などで教鞭をふるい、自身の作品を様々な大学へ寄付するなど美術教育者としての顔も持っています。
国立芸術専科学校を卒業し、国費留学生としてフランスに留学した事をきっかけに現代西洋画に興味を持ち、パリのフランス国立美術学校で油彩画を学びました。
こうして、中国の水墨による伝統技術とフランスで学んだ西洋技術の融合を試み、伝統を守りながらも近代的な作品を展開していきました。
その中でも点、線、面の組み合わせを重視しており、装飾性を強調した抽象的な作品は高く評価されています。
画家として順調に人生を歩んでいた呉冠中ですが、文化革命初期に非常に思い肝炎にかかり、なかなか病状は回復しませんでした。
精神的に追い詰められていった呉冠中は、無理して絵を描くことで自殺しようと試みましたが結果的に病状は回復します。
病気が治ったにもかかわらず、今度は農村での強制労働に従事する事となり、苦しい生活を強いられました。
それでも画家としての性分は抑える事はできず、糞を入れるかごを台にして絵を描く姿から「糞かご作家」とからかわれながらも画家として作品を描き続けました。
こういった苦労が実を結び、香港オークションでは作品が当時の最高落札価格を記録し、古代文物以外は展示しないという大英博物館の慣例を初めて打ち破り個展を開催するという快挙を成し遂げるなど、20世紀の芸術大家として世界的に認められる存在となりました。