東京都で生まれた日本の洋画家で、日本画家、随筆家としての顔も持っています。
日本的油彩画を創造し独自の画風を展開した木村荘八は、情緒深く描かれた下町風俗が大衆の人気を集めていました。
日本画においては歴史風俗、時代考証をモチーフとした作品を描いており、こちらは日本の伝統的な日本画とは違った雰囲気のデフォルメされた画風が特徴的です。
そして、随筆家としては『東京繁昌記』で芸術院恩賜賞を受けており、マルチな才能を見せています。
ちなみに邦楽評論家としても知られていたようです。
東京日本橋いろは牛肉店、牛鍋チェーン店・いろはを創立経営した木村荘平の妾の八男として生まれた木村荘八は、中学校を卒業してから第十支店の帳場を任されていました。
兄の影響で文学や洋書に興味を持つようになり、小説などを執筆していました。
次第に芸術家になりたいと思うようになり、長兄の許しを得て葵橋洋画研究所に入り画技を学びます。
そこで出会った岸田劉生、高村光太郎らとともにヒュウザン会を結成し、そこを作品の発表の場としました。
一方で、美術に関する著作・翻訳を行うなど、随筆家としての才能もこの頃から開花していきます。
挿絵画家に転向してからは永井荷風、大佛次郎をはじめ多くの作家の挿絵を行い、自身の文筆、随筆活動も盛んになってきます。
こうして、画家、随筆家として忙しい日々を送っていた木村荘八は、脳腫瘍の発見が遅れ、それが原因で亡くなってしまいました。