香川県出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
日本よりもフランスでの活躍が多く、「キムラ」の愛称でフランス画家として生涯を終えた画家です。
木村忠太が日本よりもフランスで活躍が目立つのは、日中戦争中に2度も徴兵され、日本で油彩を制作する事に限界を感じ、更なる可能性を求めてフランス・パリへと移住したからでした。
その作風は光の印象派から魂の印象派を目指して描き続けたもので、抽象化されながらもそこには自然の風景を感じる事のできる、ぎりぎりの具象画ともいえる表現方法で描かれており、「光の画家であり、魂の画家であった」と言われていました。
画家を志して上京した木村忠太は本名を木村忠一といいます。
独立美術協会会員として活躍していた木村忠太は、その才能が注目され、将来が期待されていました。
しかし、日本での抽象画の制作活動に限界を感じ、夫人と共にフランスへ渡りました。
フランスでは一切言葉を覚える事はせず、これは画業に専念するためで営業や画廊の付き合いなどは全て夫人に任せきりでした。
もちろん、夫人は文句ひとつ言わず、遠く離れた異国の地で必死にフランス語を勉強し、木村忠太の支えになりました。
こうしてサロン・ドートンヌ会員として活躍するようになるとフランスの画廊に注目されるようになり、日本よりも先にその名が広まっていきました。
サロン・ドートンヌ出品作「ル・クロ・サン・ピエールの家」はフランス政府買い上げとなり、フランス政府よりフランス芸術文化勲章を贈られる実力を手にし、パリと日本で度々個展を開催しました。
日本やフランスだけではなく、アメリカ進出を考え、ニューヨークで個展を開催していましたが、2回目の個展の際中にこの世を去ってしまいました。
そんな木村忠一の作品はパリのポンピドー・センター、パリ市美術館、南フランスのツーロン美術館、アメリカのワシントン・フィリップス美術館など世界中の有名な美術館に収蔵されており、日本よりも海外でその名が知られている画家の一人として現在も高く評価されています。