東京都出身の昭和時代~平成時代に活躍した日本画家です。
日本画家・郷倉千靭を父親に持ち、父親も花鳥画を得意とし、晩年には仏画において画境を開いた学者肌の画家として知られている事から、郷倉和子自身の花鳥画を得意とした日本画家でした。
写生を基本とした女性らしい細やかな表現力と描写力からなる花鳥、草花などを展開しており、父・千靭とインド、香港、シンガポールなど旅してまわった事で鮮烈な色彩美に満ちた世界を展開していきました。
これは新しい花鳥画を求めるという積極的な姿勢から生まれたものでした。
幼い頃から絵を描いていた郷倉和子は感性が高く、高等女学校4年生の時に描いた絵が皇太后様への献上画に選抜されるほどの実力を見せていました。
その当時は画家になる事など考えておらず、普通に結婚して温かな家庭を築く事を夢見ていました。
そんな中、郷倉和子の実力をもったいないと感じた美術の先生は郷倉和子に美術学校へ行く道を勧めてきました。
こうして郷倉和子は女子美術専門学校入学し、本格的に画家を志す事になります。
首席で卒業した翌年には院展で初出品、初入選を果たし、安田靫彦の火耀会に入塾して画家として心構えを教わりました。
もちろん、画家としてだけではなく結婚して子供を授かっており、出産、育児をしていた5年間を除くと毎年、院展に出品を続けていました。
そのため、文部大臣賞、内閣総理大臣賞など数々の賞を受賞し、画家としての地位を高めていきました。
「カラリスト」と呼ばれるほど色彩を多用して描いている郷倉和子ですが、近年では梅をテーマに描き続け、同じ梅を描く時でも自分の中に決まり事を作って制作に取り組んでいるそうです。