埼玉県出身の明治~昭和時代前期に活躍した日本の洋画家です。
本名は重吉といいます。
倉田家の次男として生まれました。
父親は漢学者の倉田努です。
14歳の時、親戚の洋画家・浅井忠の門下生となり絵の勉強を始めますが、浅井が東京美術学校の教師として迎えられた為、倉田も追うようにして入学し黒田清輝にも指導を受けるようになりました。
卒業して、群馬県沼田中学校の教師として高いお給料をもらっていましたが、画家になる事への気持ちが抑えきれず、退職し、時事新報社に入社して記者と画家の二重生活が始まりました。
文展に入選を繰り返し、夏目漱石に評価され注目を浴び、太平洋画会展示出品作「燈明台」を宮内省の買上げとなり、スポーツ社交団体天狗倶楽部に入会し、小説家・押川春浪などと知り合い、小説の挿絵を描くようになります。
天狗倶楽部の旅行で朝鮮・満州に行く機会があり、大自然の魅力に取りつかれ、この旅行以降、作品から人間の姿が少なくなっていき自然をモデルにした作品を多く発表しました。
その後は春陽会の創立に参加し、日本農民美術研究所が設立されるとそこでの絵画指導や運営に関わり、児童自由画教育運動にも参加し、重要な役割を果たしました。
病に倒れ失明の不安を抱えながら制作活動を続け、春陽会夏期洋画講習会の講師を勤めるなど、信州在住の美術家たちを育てまあした。