グスタフ・クリムトはオーストリア出身の画家、装飾家で「印象派の作品には思想が無い」と批判し、思想や魂を表現する作風の象徴主義を代表するウィーン分離派の一人です。
グスタフ・クリムトはオーストリアのウィーン郊外で7人兄弟の第2子として生まれ、彫金師の父を持ちます。
グスタフ・クリムトは、14歳で奨学金を受けウィーン美術工芸学校に入学し古典主義を学んでいます。
弟も同校に入学し、彫刻師、彫金師となり後に弟と友人を交えた3人でウィーン芸術家協会を設立し、デザインなどの請負をスタートし、トゥラーニ宮天井画用寓意画やウィーン美術史館階段ホールの内装、ウィーン大学大講堂の天井画などの装飾的な活動を行いました。
このウィーン大学大講堂の天井画は哲学、医学、法学の3部構成となっており「学部の絵」と呼ばれています。
グスタフ・クリムトは伝統主義者や保守的な思想を持つ人々へ反発心を抱き自身と同じ思想を持つ芸術家を集め、伝統に捉われない造形表現を主張するウィーン分離派を設立し、会長に任命され、平面的な装飾で官能性溢れる様式を確立します。
しかし、グスタフ・クリムト随一の大作となっている、ベートーヴェンの交響曲・第4楽章歓喜の歌を絵画化した「ベートーヴェン・フリーズ」をベートーヴェンを称える展示会に出品した際に、卑猥で醜悪であると新聞や批評家に批判されスキャンダルになりましたが、この作品はグスタフ・クリムトの理想美の到達点ともいわれています。
このスキャンダルがきっかけとなりウィーン分離派を数名と離脱しました後、オーストリア芸術同盟を設立することとなり色彩を探求し、スラブ的、東洋的な表現を取り入れ様式を変化させました。
グスタフ・クリムトの逸話には最大で15人もの女性が寝泊まりしていたとされてり、生涯独身でモデルのほとんどが愛人関係だったといわれています。
グスタフ・クリムトの作品は女性の裸体、妊婦、男女の交わりなど官能的です。
作風としては多用されているテーマにはファム・ファタル(宿命の女)があります。
エロスの中に死の香りが感じられるともいわれており、実際に若い娘の遺体を描いた作品もあります。
その他にも風景画も残しており平面的な装飾で安らぎと不安感が同時に感じる事ができるといわれています。
そんなグスタフ・クリムトは脳卒中を発症し半身不随となり、その三週間後に急性インフルエンザを患い惜しまれながらも56歳で没することになり、ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されました。
グスタフ・クリムトの生誕150年目には晩年に創作活動を行ったアトリエが再現されています。