1893年 福岡県で生まれる
1907年 福岡県立中学修猷館に入学する
1912年 修猷館を卒業し、長崎医学専門学校薬学科に入学する
1913年 長崎医学専門学校薬学科を中退し、上京する
1915年 帰郷したおりに結核となる
1920年 回復して再び上京する
1921年 二科展で初入選となる。
1922年 二科展で二科賞を受賞する
1923年 円鳥会の結成に参加する
1925年 フランス留学し、パリのシテ・ファルギエールにアトリエを借りる
1929年 二科会会員に推挙される
1930年 二科会を脱退する
1936年 代々木から国分寺に転居する
1940年 紀元二千六百年奉祝美術展に出品する
1946年 読売新聞社主催の新興日本美術展の審査員となる
1950年 読売新聞主催現代美術自選代表作十五人展に出品する
1953年 青年期に罹った結核が再発し、療養と制作の日々を送るようになる
1958年 週刊朝日に有馬稲子をモデルにした表紙画を描く
1959年 朝日新聞社主宰の児島善三郎自選展に
初期作品から近作まで絵画、彫刻120点を出品する
1961年 千葉県の額田病院に入院する
1962年 肝臓癌にて69歳で逝去
1893年 福岡県で生まれる
1907年 福岡県立中学修猷館に入学する
1912年 修猷館を卒業し、長崎医学専門学校薬学科に入学する
1913年 長崎医学専門学校薬学科を中退し、上京する
1915年 帰郷したおりに結核となる
1920年 回復して再び上京する
1921年 二科展で初入選となる。
1922年 二科展で二科賞を受賞する
1923年 円鳥会の結成に参加する
1925年 フランス留学し、パリのシテ・ファルギエールにアトリエを借りる
1929年 二科会会員に推挙される
1930年 二科会を脱退する
1936年 代々木から国分寺に転居する
1940年 紀元二千六百年奉祝美術展に出品する
1946年 読売新聞社主催の新興日本美術展の審査員となる
1950年 読売新聞主催現代美術自選代表作十五人展に出品する
1953年 青年期に罹った結核が再発し、療養と制作の日々を送るようになる
1958年 週刊朝日に有馬稲子をモデルにした表紙画を描く
1959年 朝日新聞社主宰の児島善三郎自選展に
00000年初期作品から近作まで絵画、彫刻120点を出品する
1961年 千葉県の額田病院に入院する
1962年 肝臓癌にて69歳で逝去