静岡県出身の日本の洋画家で、日本の社会が抱える諸問題を積極的に取り上げて作品にするなど、時代に生きる画家として社会と真剣に向かい合った事で知られています。
また、日本の美術界ではあまり顧慮されてこなかった絵画の社会性についても、一つの具体的な可能性を示しました。
そんな北川民次の作品はセザンヌやゴーギャンに影響を受けているもの、メキシコの児童画などに見られる描く対象となるものを感覚だけでとらえるのではなく、自分が知っているものを描くという独自の世界観で描かれています。
その作風は独特なデフォルメによる原始的な生命感が溢れるもので、一目見れば北川民次の作品という事が分かります。
早稲田大学に入学した北川民次は油絵を描き始めるようになり、本格的に絵の勉強をしたいと考えるようになりました。
大学を中退してアメリカへ渡り、ニューヨークで劇場の舞台背景を制作する職人として働きながら、国吉康雄や清水登之などアメリカに渡った日本人画家たちが学んだことで知られるアート・スチューデンツ・リーグで絵画の基礎を身につけた。
ちなみに卒業まで舞台背景を制作する職人として生計を立てていました。
その後、メキシコへ移り画家として本格的に活動を始めます。
革命後のメキシコで美術を民衆のものにすることをめざした野外美術学校の運動に加わり、児童美術教育の実践に取り組むとともに、自身の絵画制作の方向性を探るかのようにさまざまな試みを重ねていきます。
こうして帰国してからの北川民次の作品は、メキシコ的な題材で壁画を思い起させるようなダイナミックな構成の作品を発表するようになり、二科会会員として日本での画家としての地位を手に入れました。
のちに二科会会長に推挙されましたが、「残りの人生はただ描くために」と会長を辞め、二科会を脱会します。
第二次世界大戦中に窯業が盛んな瀬戸に移り住み、街に住む人々、働く人々を好んで描いていており、亡くなるまでこの地で過ごしました。
また、児童美術教育にも力を注いており、名古屋市東山動物園内に名古屋動物園美術学校、名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立しました。
油彩画以外にも銅版画、木版画、石版なども手掛けており、これらはメキシコ時代に身につけたものでした。