神奈川県出身の大正時代に活躍した日本の洋画家です。
デカダンス的な生活を送りながらも全てに対して全力でぶつかっていた画家で、原色を多用した独自の色彩と野性的な鋭い感性を表現した作品からは強いパワーを感じ取る事ができます。
とにかく美しいものへの執着は性別や年齢を越え、時にはストーカーのような行動を起こすなど常人離れしており、人生最後の瞬間も病気で意識が朦朧としている中、みぞれまじりの嵐の中で倒れているのを発見され、意味不明の言葉を残してこの世を去っています。
母親が森鴎外の女中をしていた関係で森鷗外を名づけ親に持つ村山槐多は、父親の仕事の関係で愛知、高知など転々とし、京都へ定住しました。
10代に入ると詩作をよく行っており、中学2年生の時に従兄弟の画家・山本鼎に感化され、本格的に芸術家を目指すようになります。
そんな中、年下の青年に恋心を抱き、熱い恋心を語ったラブレターを渡すなど大胆な行動を起こしていますが、当然相手からの返事はなく、村山槐多は精神的なダメージを受けました。
中学を卒業すると画家を志して上京し、山本鼎から紹介された小杉未醒のもとで下宿しながら日本美術院洋画部の研究所に通い、二科展に出品して入賞を果たします。
こうして制作に没頭する日々が続き、様々な展覧会で高い評価を得ていきましたが生活面では厳しい状況が続きました。
それでも自立し、創作活動を続ける中、モデルの「お玉さん」に心を奪われ、年下の青年に抱いたような激しい恋心を露わにします。
しかし、「お玉さん」は村山槐多の気持ちには見向きもせず失恋に終わりますが、すぐに次の恋に溺れるようになります。
その相手はかつての下宿先の「おばさん」でした。
「おばさん」の名前は「おとく」といい、年齢は40歳過ぎの子供もいる美しく妖艶な女性でした。
村山槐多はおとくには特に執着したようで、アルバイトで稼いだお金は全て彼女に貢ぎ、画業もままなりませんでした。
しかし、この恋も成就する事はなく、村山槐多はさらに精神的なダメージを受け、それは酒に溺れるという形で表れてしまいました。
その上、栄養失調、不摂生が重なり、結核性肺炎という当時では完治が難しい病気にかかってしまいます。
結核性肺炎は友人たちの力添えもあり回復に向かいましたが、当時流行したスペイン風邪(インフルエンザ)によってこの世を去ってしまいました。
村山槐多が画家として活動した期間はわずか5年ほどと短く、残された作品数が少ないため、中古市場でも高値で取引されている画家の一人として挙げる事ができます。