長野県出身の明治~昭和時代前期に活躍した水彩画家です。
本名は健作(健策)といいます。
実家は養蚕業と蚕種製造業を営む農家で、父は蚕種貿易商として横浜に滞在することが多かったため、土産として持ち帰った錦絵などを見ながら育った事が画家を志すきっかけになりました。
上京すると、画塾・彰技堂で学び、吉田博の写生を見た事をきっかけとし、水彩画家としての道を歩み始めました。
生まれ故郷の山河を愛し、山岳風景画をもっとも得意としていますが、取材範囲は広く、国内はもとより、欧米、アジア各国へ何度も写生旅行に出かけ、作品を残し、太平洋画会・日本水彩画会の創立、水彩画講習所(後の日本水彩画研究所)の設立に参加し、後進の育成に尽力するなど活躍をしました。
また、島崎藤村とも交流があり、藤村が発表した「水彩画家」という作品で自分の私生活を写生したものであり、世間の誤解を受けること抗議した事があったが、これは藤村自身の体験を小説にしたものであり、晩霞の早とちりだったというエピソードが残されています。