京都府出身の昭和~平成時代に活躍した日本画家です。
豊かな古典の素養に支えられた美しい筆線の歴史人物画に定評があり、洋画の手法をプラスした作品から蒔絵や屏風絵などの本来の日本画の姿を描いた作風で多くの作品を残しました。
特に人物画には優れた作品が多く、女性をモデルにした作品は一目見て森田曠平の作品という事が分かる癖のある切れ長の鼻と、とがった顔をしています。
その中でも舞妓を題材にした作品は女性の癖のある顔立ちは他の作品と変わりませんが、着物の柄はしっかりと描かれているのが特徴です。
森田曠平の母方の祖父・森田茂は政治家で美術品収集家でもあり、橋本関雪、土田麦僊、富田渓仙らと親交があった事から日本画に興味を持ち画家を志すようになります。
しかし幼い頃から病弱で、10歳の頃には結核性腹膜炎にかかるなど京都を離れる事を許してもらえず、京都市立絵画専門学校への入学を志して当時京都市立美術工芸学校教師であった前田荻邨に師事しましたが、結核が再発して進学を断念します。
それでも画家を志す気持ちは鎮まる事はなく、独学で絵画や陶芸をはじめ、小林柯白に師事して本格的に日本画を学ぶ機会を得ましました。
院展で初入選を果たしますが小林柯白がこの世を去ってしまった事から安田靫彦に入門して歴史画を学び、歴史画に洋画の手法をプラスする独自の画面構成を築き上げ、院展を中心に活躍を見せるようになります。
体調も良くなり、神奈川県小田原へ転居すると図画教師をつとめ、多摩美術大学日本画科助教授となると横浜へ移り住みます。
その後は病気に悩まされる事なく、内閣総理大臣賞、日本美術院賞などを受賞し、中国をはじめ、南蛮風俗を取材するためにスペイン、ポルトガル、イタリアへ旅行し、その後もオランダ、オーストリア、ドイツ、イギリスなど各地を訪問するなど精力的に活動を続けました。