北海道出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
31歳という若さでこの世を去っており、その短い画家人生の中で様々な作風を展開した事で知られています。
その作風全てが独学だという事も三岸好太郎が画才に恵まれた存在であった事を物語っています。
妻の節子も画家として活躍していましたが、お互い画家であった事から衝突も多く、その事が原因なのか三岸好太郎の女性関係も派手なものでした。
画家を志して上京した三岸好太郎は、独学で画技を習得し、春陽展で初入選を果たすと出品を重ねました。
はじめはアンリ・ルソー風の素朴な画風を展開していましたが、岸田劉生の東洋趣味への傾倒を経て中国旅行をきっかけにエキゾティックでエロティシズムが見え隠れする支那美人の肖像画を制作するようになります。
福沢一郎らと独立美術協会の結成に参加し、最年少会員となった三岸好太郎は、ピエロをモチーフにした作品を数多く発表するようになり、その作品にはジョルジュ・ルオー風のフォービズムの影響が見られ、自由奔放な画風へと変化していきました。
また、巴里・東京新興美術同盟展に衝撃を受け、前衛画風も取り入れるようになり、蝶や貝殻などをモチーフにした幻想的な世界を描き出しました。
その中の代表作の一つ「のんびり貝」は近年の宝くじの図案に抜擢されており、当時この作品を売ったお金で妻・三岸節子と関西を旅したという逸話が残されています。
三岸好太郎は若くしてこの世を去ってしまった洋画家ですが、「私は建築家になるべきでしたね。建築は絵画なんかより先進的です。」と語るほど建築にも関心を持っており、斬新な構想を盛り込んだ新しいアトリエの建築を計画しており、もし病気にならなかったら、建築家としての三岸好太郎の活躍を見る事ができたかもしれません。
ちなみにこのアトリエは三岸好太郎が亡くなってからの完成となり、妻・節子がアトリエとして使用した後、現在は非公開となっていますが、アトリエの一部ではプリザーブド教室、中野区社会福祉協議会の事業「まちなかサロン」など、イベントや教室などを開催されています。