東京都生まれの日本の洋画家。
幼少期は岩手で過ごしており、東京在住の岩手出身者を中心とした「北斗会」の展覧会に出品しているところを見ると、「岩手出身者」の意識を持っていたようだ。
松本禎子と結婚してから松本姓を名乗るようになり、名前の「俊介」を「竣介」に改めるのは1944年(昭和19年)制作の作品から。旧姓は佐藤。
満2歳の時に父親の仕事の関係で岩手県花巻へと移住する。
1925年、旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)入学の年、竣介は病気(脳脊髄膜炎)のため聴力を失う。聴覚障害者となった竣介は、3つ違いの兄・彬から油絵道具一式を贈られたことをきっかけに絵に打ち込みはじめ、画家を目指すようになった。1929年(昭和4年)、中学を3年次で退学して兄・彬とともに上京、太平洋画会研究所(のち「太平洋美術学校」に改称)で絵を学ぶ(彬の上京は東京外国語大学進学のためであった)。
竣介は、都会風景を好んで描いた画家として知られる。作品は、青系統の透明な色調のなかに無国籍的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた系列と、茶系統のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものの2つの系列があるが、戦時色が濃くなるにつれ、後者のくすんだ色調の風景が多くなる。
戦後の1948年(昭和23年)、持病の気管支喘息により病死。満36歳没。