岡山県出身の明治~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
初期の頃は褐色系を多く用いた歴史風俗画を描いていましたが、1900年代前半の頃から色調を抑えて淡彩を多く取り入れた作品を展開するようになり、再び渡欧した事がきっかけで画風を一新させ、明快で明るい色調の風景画や裸婦像が多くなりました。
最終的には後期印象派の影響を受けたものへと変化し、これまでの写実的な表現から装飾的な線や色を重視した画風を展開した事で知られています。
特に晩年の作品には的確なフォルムで暖かみのある色彩による平明で装飾的な画面を作り上げました。
叔父・堀和平は岡山県で洋画の草分けと言われた存在で、幼い頃から堀家に行くたびに和平の画技を見る事が楽しみだった満谷国四郎は、洋画に興味を持つようになりました。
浅尾小学校では代用教員をしていた洋画家・吉富朝次郎に可愛がられ、岡山中学に進むと洋画家・松原三五郎に画才を認められたそうで、幼くして画家としての実力を持っていました。
その後、上京して五姓田芳柳に師事し、次いで小山正太郎の画塾・不同舎で本格的に絵の勉強を始めます。
画家としての才能はすぐに開花し明治美術館創立十周年記念展に『林大尉の死』という作品を発表しました。
この会場には明治天皇が観覧に来ており、満谷国四郎の作品は明治天皇に褒められ、作品は宮内省買い上げとなりました。
この事をきっかけにその後発表した『妙義山』は外務省に、『尾道港』は再び宮内省の買い上げとなるなど、満谷国四郎の名声は高まっていきました。
そんな中、鹿子木孟郎らとアメリカ経由でフランスへ渡り、ジャン・ポール・ローランスに学んだ満谷国四郎は、帰国すると太平洋画会を創立し、理事として活躍するようになりました。
その一方で文展への出品も重ねていき、34歳という若さで文展審査員をつとめるまでになります。
この頃の作品は社会風物を鋭く描いたものが多く、実業家・大原孫三郎の援助で再度渡欧する事になると、パリでデッサンに真剣に取り組み、ルノワールやセザンヌから影響を受けた作品へと変化していきました。
その後も中国旅行では大陸の自然を目の当たりにした満谷国四郎は、油絵具を使い東洋画の落ち着きと気品を携えた画風を完成させ、山水を描く南画風の絵も描くようになり独自の画境を切り開きました。