京都府出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
40年以上にわたり北海道から鹿児島までを旅して回り、生涯古い民家の絵を描き続けた事で知られています。
そのため、「民家の向井」などと呼ばれており、その場の空気まで描いたような高い写実性が評価されています。
生家は東本願寺の建築にも関わった宮大工で、家には10人近い職人が雇われ輸出向けの刺繍屏風や衝立を製造する仕事で働いていました。
向井潤吉は長男であったため将来は家業を継ぐ立場にありましたが、絵を学びたい気持ちが強くなり、父親との約束で日本画を学ぶ事を条件に京都市立美術工芸学校予科に入学します。
しかし、油彩画の魅力に憑りつかれ、父親の反対を押し切って京都市立美術工芸学校を中退します。
こうして家業を手伝うという事を条件に関西美術院に入学し、油彩画を学びました。
在学中に二科展で初入選を果たすと洋画家として生きていきたいと強く思うようになり、父親に反対される事は分かっていたため家には無断で上京し、新聞配達などで生計を立てながら川端画学校で画技を磨き、京都へ戻りました。
その後、渡欧してパリを拠点に写生に励み、ルーブル美術館の作品を模写し、西洋絵画の技法を身につけた向井潤吉の作品は帰国後に行われた二科展で特別出品となり、二科会会員として認められ、二科会の中心的画家として活躍を見せるようになります。
戦時中は自ら進んで従軍画家として戦地に赴き戦争記録画を制作し、その作品が昭和洋画奨励賞を受賞しています。
そのため、戦後は二科展再興には参加せず、小出卓二、古谷新、田辺三重松ら有志9名で行動美術協会を結成し、この頃から民家を題材にした作品を描くようになり、行動美術協会を中心に活動を行いました。