大阪府出身の大正~昭和時代に活躍した日本画家です。
幼い頃に両手に火傷を負って指先の自由を奪われ、両手に挟んで絵を描く「合唱描法」を編み出し、とても不自由な手で描いたとは思えないほどの人物画、風景画を描いている事で知られています。
特に美人画は緻密な描線、構図、色彩が高い評価を受けており、美人画の第一人者として活躍しました。
船場で鼻緒問屋を営む家に生まれた中村貞以は、本名を清貞といいます。
両親は将来太夫にするつもりで、はじめ浄瑠璃を習わせたりしましたが、手が不自由にも関わらず、習字や絵の才能を発揮していた姿を見て中村貞以が望むようにさせました。
幼い頃から絵を描く事が好きだった中村貞以は近所に住んでいた浮世絵師・長谷川貞信に師事し、不自由な手を駆使して写し物ばかりをしていました。
特に新聞の挿絵を好んで写しており、この修練によって両手の間に筆を挟み、どんな細い線でも描く事ができる「合唱描法」を編み出します。
その後、北野恒富に師事して本格的に日本画の技法を学び才能を伸ばしていき、院展で初入選第1席を受賞してからは数多くの賞を受賞するようになり、手が不自由というハンデを感じさせない作品を次々に発表していきました。
ちなみに北野恒富は日本美術院同人で美人画を描く画家として知られており、中村貞以もその影響を受けて美人画に取り組むようになり、院展で活躍を見せるようになります。
中村貞以の院展での活躍は目覚ましいもので、横山大観からも一目置かれる存在でした。
第19回院展出品作品「朝」は日本美術院賞第一賞を受賞すると画家として地位を確立し、画塾・春泥会を結成し、後進の指導にもあたるようになります。
そして作品は現代風俗を扱った清新なものへと変化していき、戦後になると典麗清雅な趣をたたえる美人画が生まれました。
こうして文部大臣賞、日本芸術院賞など栄誉ある賞を受賞した中村貞以は真宗大谷派難波別院本堂余間の襖絵「春・得度の図、秋・往生の図」を手掛けるなど手が不自由というハンデを感じさせない画家人生を歩みました。