福岡県出身の大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
鉱山技師で住友本社鉱山技師長をつとめた中村啓二郎の長男として生まれました。
洋画家の中村琢二は弟です。
中学校在学中に絵画クラブに入会したのが画家を志すきっかけとなり、卒業後は京都に出て鹿子木孟郎の内弟子になります。
東京美術学校の受験に反対していた父親を説得し、上京して本郷絵画研究所に入り、受験に備えました。
東京美術学校の西洋画科に入り、在学中に光風会で初入選をはたし、帝展でも入選、受賞を繰り返しました。
戦時中は軍の委嘱を受け作戦記録画を制作しており、中村が描いたと確認できる作品は17点あり、戦争期に画業の一頂点をなしたとも言われています。
東京大空襲によって住居とアトリエを焼失しましたが、戦後も日展、光風会を中心に活動し、日展の常務理事をつとめました。
抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義の代表といっても過言ではありません。