茨城県出身の大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
草花、静物、人物、風景など多岐にわたるモチーフで知られる画家で、結核を患っていた事からアトリエで制作した作品が多く見られる画家としても知られています。
ルノワールやロダンの作品を見て感銘を受け、代表作「エロシェンコの像」はルノワールの影響を感じる事ができます。
幼い頃に兄弟と両親を亡くした中村彝は生き残った兄弟に育てられました。
父親代わりの兄は陸軍軍人であった事から、軍人をめざし、名古屋陸軍地方幼年学校へ入学しました。
スパルタ教育に耐え、無事に卒業となると東京の陸軍中央幼年学校に進学しますが、肺結核を患い、中退となります。
ショックを隠し切れなかった中村彝でしたが、陸軍学校の前に通っていた愛日小学校高等科で知り合った野田半三の影響で絵を描く事に興味を持っていたため、千葉県へ移り、療養しながら絵を描くようになります。
こうして画家を志すようになった中村彝は白馬会洋画研究所で絵を本格的に学び始め、次いで太平洋画研究所にて学び、中村不折、満谷国四朗に師事して画技を磨いていきました。
文展で活躍を見せるようになると新宿中村屋裏のアトリエへ移り、制作活動を行うようになります。
このアトリエは荻原碌山が洋館を改装したものとして知られ、荻原碌山は中村屋の相馬夫妻とも深く親交していた事でも知られています。
そのため、食事もろくに摂らずアトリエでの制作に熱中する中村彝の体調を心配した相馬夫妻は中村彝を食卓に招き、相馬家の家族の一員のように扱うようになりました。
この事がきっかけで相馬家の長女・俊子をモデルとした作品を描くようになり、二人の仲は急速に縮まっていきます。
しかし、その事は相馬夫妻にとっては嬉しい反面、娘の裸体を描いた作品が展覧会に出品され、人々の目にさらされる事への抵抗を感じ、二人の仲を妨げるようになりました。
こうして中村彝は中村屋から離れる事を決意し、日暮里に移り、最終的には下落合のアトリエに落ち着きました。
このアトリエに落ち着く前に、俊子と再会を果たしていますが、その恋が実る事はなく、中村彝の心は深い闇に閉ざされてしまいます。
更に追い打ちをかけるように結核を患っている事で体力も奪われ、制作活動の疲れと重なり、喀血が続くようになります。
そんな中、盲目の詩人 ワシリー・エロシェンコとの出会いによってエロシェンコをモデルとした作品を夢中になって制作し、その作品は「明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作」と評価されるものとなり、その後も精力的に制作活動を続けましたが結核のため、37歳という若さでこの世を去りました。