日本の洋画家。アメリカで日系移民の家に出生するが、3歳の時に教育の為、父に郷里である熊本に訪日。親類の下で育てられた。
1926年県立熊本中学校を卒業すると帰米してオークランドのピトモンドハイスクールに入学してこのとき初めて洋画を学ぶ。以後、29年にサンフランシスコ・カリフォルニア美術学校に入学。30年に同校の壁画制作に来ていたリベラにフレスコ画の指導を受けるなど画家への道を歩み31年にはニューヨーク北部の芸術家村ウッドスットクに住んで制作活動や研究に没頭。
32年に一時サンフランシスコに戻るが34年に再びニューヨークに移りインディペンデント展、ホイットニー美術館ビエンナーレなどに出品して注目を集めだす。33年、アメリカ共産党と関係をもちながら、ニューヨークでディエゴ・リベラの壁画制作の助手をつとめた。
また、1934年に訪日して翌35年の第22回二科展に「帰路」を出品。これが日本での初めての発表となり、(36年の帰米をはさみ)37年には日本の長期滞在を決して新制作協会に参加。しかし、間もなく脳腫瘍の為、39年に急逝した。