北海道出身の昭和~平成時代に活躍した日本の洋画家です。
70年以上におよぶ画家として活動は一貫して真摯な姿勢を貫き、生涯、自身の内面との対話の中から日本的詩情あふれる抽象表現の可能性を追求し続け、西洋にはない独自の抽象画を確立した事で知られています。
そのため、絵画作品の他にも詩集も多数刊行されており、次男・難波田史男も画家として活躍していました。
日本を代表する彫刻家・高村光太郎は画家や詩人としての顔を持っている事で知られており、難波田龍起はそんな高村光太郎アトリエのすぐ近くに住んでいました。
高校生の時に自作の詩を携えて高村光太郎のアトリエに通うようになると高村光太郎の生き方や芸術観に強い影響を受け、画家としての道を志すようになります。
太平洋画会研究所、本郷絵画研究所でデッサンや絵画の勉強を始めますが、長くは続かず、高村光太郎から画家・川島理一郎を紹介されました。
川島理一郎主宰の絵画研究会の金曜会に入会しますが、ほぼ独学で画技を習得していった難波田龍起は、フランスの画家オディロン・ルドンに傾倒していきました。
オディロン・ルドンの作品は、幻想世界を描いた象徴主義のような作風が特徴で、難波田龍起の画風に大きな影響を与え、難波田龍起の画風の基礎が出来上がりました。
その後、多数の展覧会に出品を重ね、様々な美術団体に参加したり、自ら美術団体を結成したりと忙しい日々を送る難波田龍起は次々と作品を発表するようになりました。
晩年ではどこの美術団体にも所属する事なく、個展を中心に作品を発表し、その作品には幾重にも重なる旋律のように、微妙に変化する色調はフーガやカノンといった音楽を感じる事ができると評価されました。