ラグーザ玉は日本人女性洋画家で、本名を清原多代といいます。
イタリアの彫刻家・ヴィンツェンツォ・ラグーザと結婚した事で西洋名エレオノーラ・ラグーザを名乗るようになります。
若い頃から日本画、西洋画を学んでおり、工部美術学校で彫刻科の講師として来日していたヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い西洋画の指導を受け、ヴィンチェンツォの作品のモデルもつとめた事からその仲は親密なものへと変わっていき、やがて二人は結婚します。
ヴィンツェンツォに伴われ、姉夫婦と共にイタリアへ渡り、パレルモに開いた工芸学校の校長となったヴィンツェンツォは画家としても活躍します。
一方ラグーザ玉はパレルモ大学美術専攻科に入学し、サルバトーレ・ロ・フォルテに師事し、洋画家としての才能を開花させていき、ヴィンツェンツォが校長をつとめるパレルモの工芸大学で絵画教師をつとめるまでになり、副校長としてもヴィンツェンツォを支えていました。
イタリアでの生活は次々と立ちはだかる障壁を乗り越えた生活でしたが、幸せな日々を過ごしていました。
それはラグーザ玉が日本語を喋る事ができなくなった事が充実した日々を過ごしていた証です。
しかし、ヴィンツェンツォが亡くなり、ラグーザ玉は日本への帰国を希望しますが、なかなか受け入れられず、簡単には戻る事ができません。
そんなラグーザ玉の存在を知ったとある新聞社がラグーザ玉の人生を連載小説として発表し、帰国する事ができました。
帰国してからのラグーザ玉は旧姓の清原に戻り、生家で絵を描き続け、画業に専念し、その生涯を閉じています。
また、夫・ヴィンチェンツォの遺作を東京美術学校に多数寄贈しています。