フランスの画家で、パブロ・ピカソと共にキュビズムを創始した一人としてその名が知られています。
ピカソの印象が強く、「2番手の画家」としてのイメージが強い画家なのですが、キュビズムという言葉はジョルジュ・ブラックの作品を見たアンリ・マティスが「どれもこれもキューブだ」と言った言葉や、批評家ルイ・ヴィークセルが「ブラックはあらゆるものを幾何学的パターン、キューブに戻してしまう」と言った事から生まれた言葉だとされています。
ジョルジュ・ブラックはセーヌ川沿いの町アルジャントゥイユで生まれル・アーヴルで生まれ育ち、父親は塗装業を営んでおり、休みの日は画家として活動を行っていました。
そんな環境下の中、ジョルジュ・ブラックは家業を継ぐために美術学校で学んでいきます。
この時は画家になる事は一切考えていなかったようですが、段々と本格的に画家を志すようになり、アンリ・マティスの影響を受け、力強い筆致で激しい色使いの野生派に近い作品を制作するようになります。
その後、サロン・ドートンヌでセザンヌの記念回顧展を訪れその作品に衝撃を受け、更にパブロ・ピカソのアトリエを訪れた際に目にした「アヴィニョンの娘たち」を見た事にも衝撃を受け、セザンヌ的な風景画を数点残し、ピカソと共同作業を行うようになります。
しかし、第一次世界大戦勃発により召集され、ピカソとの共同作業はここで終わりを告げます。
その後、頭に怪我を負ったジョルジュ・ブラックは除隊となり、画家としての制作活動に復帰し、これまでの画風とは違う作品を展開するようになります。
キャンバスの一部に丁寧に木目を描いたり、絵具に砂を混ぜるなどこれまでの絵画とは違った表現のコラージュやパピエ・コレといった作品を発表し、小型円形テーブルの連作で幾何学的な絵画から色彩豊かなスタイルへ進展していきました。
また、絵画作品以外にも楽譜や書籍の挿絵も手がけています。
このように、フランスの美術界に大きな影響を与えたジョルジュ・ブラックですが、20世紀美術を代表する巨匠として、1963年に亡くなった際、ルーヴル美術館の前で国葬が執り行われ、当時の文化相アンドレー・マルローが弔辞を読みました。