ジャクソン・ポロックはアメリカワイオミング州コーディ生まれの抽象表現主義の画家で、美術界において異端を貫いた事で有名です。
ジャクソン・ポロックは若き頃、兄の影響でインディアン文化、神智学を好んでいました。
この頃、ロサンゼルスのマニュアル・アーツ・ハイスクールで学んだ後、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグにも通い、アメリカン・シーン派のトーマス・ハート・ベンソンから学びました。
そのためジャクソン・ポロックの初期の作風はアメリカン・シーン派(地方主義)となっています。
それから5年程たった頃にニューディール政策の一環として新進気鋭の画家達に公共建築の壁画や作品設置を政府より依頼されたWPA(公共事業促進局)の連邦美術計画に参加し壁画担当となり、以前からリスペクトしていたメキシコ壁画運動の作家ダビット・アルファロ・シケイロス達の助手を務めました。
この時にジャクソン・ポロックは、巨大な壁に絵筆ではなくスプレーガンやエアブラシで制作する現場に驚いたそうです。
また、この頃からアルコール依存症が始まり、深層心理を研究したユング派の医師による精神分析の治療を受けました。
ジャクソン・ポロックの作風は第2次世界大戦中にアメリカに避難していた超現実主義者達やピカソ、ミロらの影響によりアメリカン・シーン派から無意識的なイメージに重きを置く作風になっていきました。
ジャクソン・ポロック作品の特徴は、インディアンの砂絵の影響からなのか、まずキャンパスを床に広げます。
空中から塗料を落とし込むドリッピングや線を描くポーリングで意図的に塗料の落ちる場所と位置をコントロールし塗料を叩きつけ、四方からキャンパスを埋めていきます。
「地」と「図」が共存する作風は「オール・オーヴァー」と呼ばれアクション・ペイティングと呼ばれる技法を用います。
ジャクソン・ポロックはアメリカを代表する画家となり名声を得ましたがプレッシャーもあったようでアルコール依存症が再発し、新たなアイデアが浮かばない事もあってか混迷期に入りました。
この頃の作品は黒いエナメル一色の絵や写実的な絵を描いたかと思えば色彩豊かな抽象画に戻っているなど模索していたようです。
その時期に若い愛人と友人を巻き添えに飲酒運転で自動車事故を起こし、44歳という若さで惜しまれながらもこの世を去ってしまいました。
その生涯は「ボリック2人だけのアトリエ」というタイトルで映画化もされています。
またユニクロでジャクソン・ボリックの作品がプリントされた商品が販売されるなど日本でも人気があります。