19世紀に活躍したバルビゾン派のフランスの画家です。
バルビゾン派とはフォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の姿を描いた画家たちの事を指す言葉で、ミレーの作品は大地と共に生きる農民の姿を崇高な宗教的感情を込めて描かれているのが特徴です。
ミレーの代表作のひとつである『種まく人』が岩波書店のシンボルマークとして採用されており、ミレーの存在は日本でも親しいものとなっています。
ミレーはノルマンディー地方のシェルブール近郊の村グリュシーで8人兄弟の長男として生まれ、父親は農民であり、敬虔なカトリック教徒でした。
そのため、野良仕事の合間に聖書やローマの田園詩を愛読したり、大好きな写生に没頭する子供時代を過ごしました。
パリに出ると奨学金を得て美術学校に入学し、ポール・ドラローシュに師事します。
ここではデッサンや模写のほか、聖書や神話など画題となる古典文学にも学び、ミレーの作品の基礎が出来上がります。
しかし、美術学校のアカデミックな教育に違和感を感じると退学し、その後も独学で絵を学びサロンに初入選を果たしますが、しばらくは目立った活躍はありませんでした。
生活は貧しく、病弱のポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚しますが、彼女はすぐに病で亡くなってしまい、その後カトリーヌ・ルメートルと再婚しようと考えますが、周囲が許してくれず、すぐには再婚できませんでした。
カトリーヌ・ルメートルとは9人の子供を授かっていますが、生活は苦しく、ミレーは生活のために肖像画や裸体を描いて生活費を稼ぎます。
そんなある日、美術商の店先に自分の裸体画が掛けられており、それを眺めていた2人の男に「いつも女の裸ばっかり描いていて、それしか能のないやつさ」という言葉を受け世間では低級な好みを狙っている画家であると評価されていた事に愕然とし、この出来事から一切裸体を描かないと心に決めました。
パリでコレラが流行すると、避難もかねてバルビゾンへ家族揃って移住します。
バルビゾンでは午前中は農作業を行い、午後は絵を描くという生活を送り、亡くなるまでこの地で制作活動を続けました。
そんなミレーの作品の評価が高まったのはフランスではなくアメリカで、画家として成就したのは晩年近くになってからでした。
こうしてミレーの農民画は同時代や後世の画家に大きく影響を与え、特にフィンセント・ファン・ゴッホは評伝を通じてミレーに親しみ、自分の作品のなかでもミレーのモチーフや構図をそのまま取り入れています。