大正~昭和時代前期に活躍した日本の洋画家です。
父親は一宮銀行、一宮紡績株式会社、一宮瓦斯株式会社、一宮電気株式会社の取締役をつとめた後に、一宮町長となり、政財界で活躍をしており、母親は名古屋の花柳界で名妓と謳われた芸者だったそうです。
小学生の頃から絵が得意で、川端画学校で学び、アトリエを新築しました。
このアトリエは日本一と称され、敷地は400坪もあり、関東大震災の際に被災者のために解放した事もありました。
その後、台湾で写生旅行に出かけ、絵画の研究の為にフランスへ渡り、幅広い文化人との交流が日本に居た頃は寡言沈黙、温厚な模範学生タイプで地味な存在であったため友人も少なかった佐分の性格がまったく真逆の陽気で派手となり旧友を唖然とさせたといいます。
帰国後も、東京宝塚劇場の美術部嘱託として入社、諸雑誌から随筆の執筆を依頼されるなど仕事は順調であったが、上京した母と一人息子を伴い上野鈴本亭で落語を楽しんだ翌日未明に遺書を3通残して自宅アトリエで首を吊って亡くなっていました。