埼玉県出身の大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家、美術評論家です。
20歳でパリへ渡り、アカデミー・ジュリアンやソルボンヌ大学で学び、日本の近代洋画の展開に大きな意味と影響を及ぼした画家としてその名を挙げる事ができます。
その作風はセザンヌやゴッホに影響を受けたと思わせるものが多く、画家としての活動の他にも、文筆活動にも優れた才能をみせた事で知られています。
斎藤与里の本名は與里治(よりじ)といい、父親は村議会議員をつとめていた人物で、周りよりは地位も権力もある家に生まれました。
画家を志して京都に出て、浅井忠、鹿子木孟郎に学び、20歳の時に鹿子木孟郎とともにフランスへ渡ります。
帰国してからは文筆活動を積極的に行い、雑誌「白樺」でゴッホ、セザンヌ、ゴーキャンなどの後期印象派やフォービズムなどをはじめて日本で紹介し、この事は日本の洋画界に大きな影響を与えました。
その後、若手画家たちの集まりである、フュウザン会を岸田劉生らと結成してグループ展を開催します。
会期中のある日、斎藤与里とグループの一人であった高村光太郎の作品が会場にやってきた夏目漱石と寺田寅彦の買い上げとなり、斎藤与里と高村光太郎の二人はグループの仲間たちから胴上げをされたというエピソードが残されています。
フュウザン会は翌年には解散となりますが、槐樹社を結成し、機関誌「美術新論」の主幹として活躍します。
しかし、槐樹社内部に買収などの醜聞が囁かれはじめたため解散を決意し、信頼のおける親密な仲間たちを募って新しく東光会を結成しました。
その後は、東光会の会頭となるなど画家としての活躍はもちろん、美術評論家として明治時代末期から大正期の近代洋画の発展に大きな役割を果たしました。