大正から昭和期の洋画家。
大阪市中津の光徳寺の次男として生まれる。
画家としての制作期間は6年と短く、その間に2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。
作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。
佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。
作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある。
中学在学中より赤松麟作に
洋画を学ぶ。
大正5年に上京し川端画学校に入学、翌年東京美術学校洋画家に入学。
その間に米子と結婚。その後すぐに渡仏しておりパリにて巨匠ヴラマンクの影響などもあり人物、街並み、パリ郊外田園風景などを中心にフォービズム(野生派)の画風を確立していった。
25年(大14)にはサロンドートンヌに「靴屋」を出品し同入選を果たす。
翌年には二科展に作品20点を日本へ送り出品、二科賞を受賞。
26年に一時帰国したが27年に二度目の渡仏をし、前田寛司、木下孝則らと「1930年協会」を結成して、さらに精力的な制作活動を続け3ヶ月の間に百数十点の作品を残すが翌年の28年(昭3)に持病の結核が悪化し、精神面でも不安定となった。
自殺未遂を経て、セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日、
30歳4ヶ月の若さで衰弱死した。