大阪府出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
作品のテーマに一貫性はなく、国内外の風景、裸婦、女性像、人形、華、など手掛ける題材は多く、新聞挿絵なども多く手掛けていた事で知られています。
また、戦争美術関係の展覧会にも多数出品を重ねており、生涯を通じて非常に多くの作品を手掛け、多くの作品を残した画家の一人として挙げる事ができます。
その作風はフォービズム的な明るい色調と装飾性が感じられる作品となっており、日本芸術院会員として活躍し、文化功労者として顕彰されています。
画家を志して上京した田村孝之介は太平洋画研究所で学びますが、翌年には大阪へ戻り小出楢重に師事しました。
小出楢重が信濃橋洋画研究所を設立するとすぐさま入所し画力の向上に努めました。
第1回大阪市美術協会展で初出品を果たすと第7回中央美術展に出品し、中央画界に登場します。
その後は二科会を中心に活動を行い、二科会会員に推挙されるまでとなります。
戦時中は中国北部、ビルマ(現・ミャンマー)などに従軍し、大日本航空美術協会の発起人に名を連ねており、戦後は二科会再建に参加する事はなく、宮本三郎らとともに9人の創立会員をもって二紀会を結成し、活躍の場としました。
その後はフランス、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインなどヨーロッパ諸国をめぐり、度々渡欧してはヨーロッパの風景を描いて帰国していました。
そんな中、宮本三郎がこの世を去ると二紀会理事長に就任し、二紀会を引っ張っていく立場となり精力的に活動を続けながら制作活動にあたっていました。
画家として多くの作品を残した田村孝之介ですが、「絵にしたる歴史の裏」「スケッチの技法」「大阪わがふるさとの...」「セニョリータ」など著書も多く残しています。