兵庫県出身の明治~昭和時代に活躍した日本の洋画家、版画家です。
旧朽木藩の御典医であり、その後、生野銀山鉱業所の勤務医や校医を勤めた和田文碩と秀の四男として生まれました。
画家を志して父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京し、黒田清輝の白馬会洋画研究所に入所、次いで東京芸術学校にも学びました。
八丈島へ渡航中、暴風雨に遭い漂流し、伊豆大島へ漂着します。
この経験が後の代表作「南風」の制作のきっかけになりました。
文部省美術留学生としてヨーロッパに留学し、図案工芸に興味をひかれ研究を行い、洋画のみならず、版画・日本画・工芸なども手掛けるようになります。
帰国すると、文展、帝展などに出品する傍ら、色彩研究にも力を入れており、染色芸術研究所、日本染色工芸協会を設立し、色彩の標準化の必要性に着目し、日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成させました。
映画「地獄門」の色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、第27回アカデミー賞を受賞し、第7回カンヌ国際映画祭でも色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(グランプリ)を受賞しました。
晩年では、油彩画の他、工芸や水墨画でもその才能を発揮しており、文化功労者に選ばれました。