1836-1902
明治に活躍した日本画家
平安時代からの大和絵の伝統を受け継いだ土佐派最後の巨匠といわれ、有識故実の見識に優れたことから宝物調査や古画鑑定など古美術保存においても才覚を発揮し、宮内省より帝室技芸員に任命されています。
略歴
1836年紀州和歌山藩の絵師・山名広政の子として江戸麹町に生まれた貫義は、住吉派の名手と名高く幕府のお抱え絵師であった住吉弘貫に師事して画家の道を歩み始めました。
明治維新後、一時は政府に新設された工部省、内務省、農商務省などで測量士として官職に従事しますが、数年後、再び画業に戻り専念します。
人々の価値観を変容させた明治維新の急激な社会変化の流れから日本固有の貴重な文化財を保存・保護しようと考えた政府は、貫義にも古い絵画の模写を依頼するようになります。その際の手腕を高く評価された貫義は、1882年と1884年に行われた官営の展覧会である内国絵画共進会において2回にわたり審査員を任命され、同第二回開催時においては自ら出品した作品で銀賞を授与されました。
展覧会での高い評価や皇室への献納などを通して盛名をはせた貫義は、同じ1884年、川端玉章、渡辺小崋らと共に、日本画各派を代表する画家が参加した東洋絵画会を結成し、機関紙『東洋絵画叢誌』を発行しています。農商務省官僚の力添えがあって発足が実現したこの絵画会には、橋本雅邦や狩野永悳らが名を連ね、アーネスト・フェノロサを名誉会員に加えた大規模なものでした。
また日本画復興を目指す拠点として結成され、古画の鑑定を行った『鑑画会』において、貫義は狩野友信らと共に持ち込まれた絵を一枚ずつ鑑定し、可とするものには委員として署名し鑑定状を交付するなど、維新後に失われつつあった古画復興への地道な活動にも尽力しています。
文化財保護にたいする貫義の活動の幅は絵画にとどまらず、1888年に臨時全国宝物取調局が発足した際には、当初から調査員として京都・奈良方面の寺社に赴き、1897年に事業が帝国博物館に引き継がれるまで、九州から東北地方など全国に渡って鑑査・鑑定活動に関わりました。こうした長年の功績が認められた貫義は、1896年には帝室技芸員に任命され、その翌年には古社寺保存会委員にも任じられています。
また晩年には東京美術学校(現・東京藝術大学の前身)に菱田春草や橋本雅邦らの後任として、荒木寛畝とともに日本画の教授として迎えられており、後進の指導にも尽力しました。その門戸を叩いた画家は、柴田真哉、河鍋暁翠、松岡映丘など多数おり、貫義は後に大成し日本画壇を牽引することになった画家たちの指導に力を注ぎました。