吉田博は明治・大正・昭和と時代の変遷の中で水彩画、油彩画、木版画に類まれなる才能を発揮していた芸術家であり、アルピニストとしての一面も持っていることでも知られています。
吉田博は旧久留米藩士の家に次男として生まれ、12歳の頃に英語専修学校である福岡県立修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学し、図画教師である吉田嘉三郎との出会い才能を見込まれ、後に吉田家の養子となりました。
卒業後は洋画普及の基盤をつくったことで知られている洋画家の田村宗立(たむらそうりゅう)に師事しており、その翌年には近代日本水彩画の第一人者として知られている三宅克己(みやけこっき)との出会いで水彩画を描き始めるようになります。
水彩画を描き始めてからおよそ5年後にアメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリアなどで展覧会を開催して世界的にも高い評価を受けました。
その後、共に各国を巡った中村八郎などと太平洋画会(現・太平洋美術会)を結成し、近代日本美術に大きな影響を与えたとされている黒田清輝などが結成した白馬会とともに明治時代の画壇を代表する団体へと躍進していきました。
吉田博が40代半ばに差し掛かる頃に浮世絵商で版元の渡辺庄三郎(わたなべしょうさぶろう)との出会いをきっかけに版画も手掛けるようになり、アメリカへ渡り好評を得るとその後の作品は版画がメインになっていきます。
作品は富士山がモチーフとなっている作品の数が多い事から、葛飾北斎の影響を受けているとも考えられており、精力的に世界各国を巡り海や山などの風景を作品としています。
作風としては、浮世絵のような印象と色彩表現が独自の風情とモチーフとなっている自然の風景への愛を感じる事が出来るのが特徴です。
また、当時の版画はデッサンや色付に印刷などの工程ごとに専門家が技術を施すのが当たり前でしたが、吉田博は各工程の知識や技術を習得しており、自身の思い描く作風とズレが出ないように最初から最後の細部に至るまで職人とともに仕上げていたそうです。
~木版画の買取はこちらへ~