萬鉄五郎(よろずてつごろう)は大正~昭和初期に活躍していた岩手県出身の画家で、フォービズムを導入した先駆けとしても知られています。
萬鉄五郎は資産家であり問屋を営む家庭に生まれ、小学校に入学すると校長である新田浅之助から水墨画を学びました。
10代半ばの頃に水彩画家・大下藤次郎の「水彩画の技法書」を読み、自分の作品を大下藤次郎に送りますが、その作品は批評されてしまいました。
その後、上京して早稲田中学で学びつつ、白馬会第二研究所(菊坂研究所)で素描を学んで基礎を鍛え直します。
20歳を超えた頃、本格的に美術を学ぶためにアメリカに渡っていますが、同年に起きたサンフランシスコ地震で困窮し僅かな期間で帰国する事となりました。
その翌年に東京美術学校で西洋画を学んでいましたが、浜田淑子と出会い、そのまま学生結婚する事になりました。
萬鉄五郎は卒業制作で鮮やかな色彩で平面的に描かれた『裸体美人』という作品を発表し、『裸体美人』は日本のフォービズムの先駆的な作品と評価されました。
しかし、萬鉄五郎自身が前衛芸術を求めている事から、保守的な大学教授や画壇に対して決別を宣言し、卒業式には出席しませんでした。
更に画家としての道筋をはっきりさせるために、教員免許状を受けなかったといわれています。
東京美術学校を卒業後すると、斎藤与里、岸田劉生らとともに表現主義的な芸術家集団であるフュウザン会に参加し、第一回展に出品しました。
帰郷すると妻に電灯会社代理店の経営を任せて制作活動に集中し、フォービズム的な作風ではなく茶褐色を主体とした作風へと変化させ、二科会に出品するようになります。
その後、病気療養のために神奈川県茅ケ崎市に居を移し、日展日本画部との対立で脱退した芸術家達によって設立された春陽会へ参加します。
一方で、自ら鉄人会を起こし、南画の研究に尽力するなど活躍を見せますが結核を患い、41歳という若さでこの世を去ってしまいました。