写真のお品物は、いわの美術でお買取りいたしました、12代酒井田柿右衛門の絵皿です。
10皿一揃いの懐石道具で共箱に書付もあり、確かなお品物として高い評価でお買取りとなりました。
酒井田柿右衛門
日本を代表する焼き物の一つ有田焼の名工・酒井田柿右衛門は、450年を超え世襲で受け継がれています。
現在は15代酒井田柿右衛門が襲名し、中古美術市場には特に14代、13代、が流通し高い人気を保っています。
12代酒井田柿右衛門は息子13代とともに、江戸中期に途絶えてしまった「濁手」の完全復元に成功しています。
従来の磁器は青みのある純白ですが、濁手は青みを廃した乳白色の磁器で、1680年頃に完成し優雅な絵付けを支え柿右衛門様式の重要な要素でした。
伊万里・有田焼
江戸初期は長崎・佐賀(肥前・有田)一帯に窯があり、伊万里港から日本全国へ出荷されたため伊万里焼の呼称が誕生しました。
有田焼の草創期には秀吉の朝鮮出兵で連行された朝鮮の陶工が活躍しており、これは初期伊万里で焼成時に癒着を防ぐため採られた砂目積みの技法が、中国にはなく朝鮮固有であることなどから明らかになっています。
同じころ中国は明末清初の混乱期で、日本でも景徳鎮からの磁器輸入が止まり、伊万里焼に需要が集中しました。
伊万里焼の世界での人気
景徳鎮の輸出停止はヨーロッパへも影響し、代わって伊万里焼は1659年からオランダ東インド会社によってヨーロッパへ輸出されます。
19世紀に流行するジャポニスムに200年先駆けて、ヨーロッパで初めて認知された日本の美術は伊万里焼の磁器でした。
しかし1684年に清朝が磁器輸出を再開、1720年にはマイセンが磁器の焼成に成功し柿右衛門写しが多く作られるようになり、伊万里焼の輸出は一旦衰退し同時期に濁手の技法も失われたと考えられています。
1867年のパリ万博に幕府と佐賀・薩摩両藩が正式に参加し大量の伊万里焼を出品すると、19世紀のジャポニスムブームに乗って好評を得ました。
一方ではヨーロッパ磁器の均質・大量生産から技術革新の必要を感じ、伊万里焼の陶工を海外研修に赴かせ、幕末明治には顔料や工程の刷新が図られるなど、伊万里焼は近現代の産業として通用する変化を遂げて現代に続いています。
酒井田柿右衛門の作品をお買取りいたします!
柿右衛門の名は古今東西に知られ、日本を代表する美術品の一つです。
大正時代に陶工柿右衛門の物語が尋常小学校国語教科書に掲載され、また歌舞伎作品としても上演されるなど、広く日本人に馴染みのある存在でもありました。
酒井田柿右衛門による磁器・有田焼は、代によりそれぞれの趣があります。
ご売却をお考えの酒井田柿右衛門の作品がございましたら、買取実績豊富ないわの美術へご用命くださいませ。
11代柿右衛門(1845年~1917年)
柿右衛門窯は藩の後ろ盾を失った明治期に低迷しますが、日常雑器を焼きながら最盛期の柿右衛門窯を目指し復興のかじ取りをしました。
日用食器が主な作でしたが、丁寧な成形と美しい絵付けで柿右衛門の知名度を再び高めます。
12代柿右衛門(1878年~1963年)
1680年頃に技術・美術両面で最盛期であった柿右衛門様式を復興する強い意志のもと、酒井田家伝来の文書解読と実験を重ねながら、ついに1953年に濁手を復刻しました。
釜の経営は良いとは言えず、遺された12代の作品の多くは染錦の食器ですが、11代同様にろくろや絵付けは素晴らしいものとなっています。
13代柿右衛門(1906年~1982年)
先代とともに濁手の復興を成し遂げ、1971年に柿右衛門製陶技術保存会を発足し、濁手の普及と保存に尽力しました。
ようやく濁手に赤絵の柿右衛門様式の磁器を制作できる環境が整い、素朴な絵柄を好みながら赤をより際立たせる粋を感じさせる作品を残し、中古美術市場でも人気があります。
14代柿右衛門(1934年~2013年)
多摩美術大学で日本画を専攻した14代の作品は、先代たちに輪をかけて優雅で、枝葉の隅々まで精緻な筆運びがみられる作品を残しました。
人間国宝に指定され、中古美術市場では20センチ~30センチ大の大きな作品はとくに高値での取引が成され、ご売却の場合、高価買取が期待できる作家です。
15代柿右衛門(1968年~)
2013年に襲名した当代柿右衛門は、伝統の美意識と技術を踏襲しつつ、グローバル化を辿る未来を見据えて作陶を続けています。
中古の美術市場に登場する頻度は未だ先代迄ほど高くないものの、花瓶など高値取引も見られ、これから尚一層の活躍が期待されています。