先日いわの美術でお買取りいたしました、小山富士夫の白磁酒盃をご紹介いたします。
小山富士夫は陶磁研究の大家であり、中国古窯の発見、日本の六古窯(ろくこよう)の定義・名づけなどの多くの功績と、骨董の識箱・極箱の箱書きも多数残し、古陶磁の第一線有識者として活躍しました。
自らも作陶を行い、稀代の見識のうち磨かれたセンスを発揮した「古山子」の号による作品は、中古美術・骨董市場で人気となっています
小山富士夫の陶器・磁器のお買取強化中です!
茶道具の茶碗・花生、懐石道具その他の皿・ぐい呑・徳利・湯呑等。
小山富士夫は当代随一の陶磁器の見識をもち、自らも優れた器を残しました。
様々な土地の窯を借りて制作したことから作風と種類は多岐に渡り、お買取り価格は作品の稀少性・芸術性により変動が生じます。
作家書付のある共箱・ご購入時の保証書・漆塗りの二重箱など、付属品が揃っていると査定額にプラスとなります。ぜひご一緒にお見せ下さいませ。
小山富士夫 焼き物の種類
・赤絵(花茶碗)
中国の宋赤絵に着想を得、「花」と書かれた人気の高い代表作です。
弊社でのお買取り実績がございます。
・粉引
李氏朝鮮から伝来した粉引は化粧土の質感が特徴で、小山富士夫作品でも高値取引が見られます。
・唐津焼、絵唐津、斑唐津(まだらがらつ)
中古美術市場に流通する小山富士夫の作品でも唐津焼は人気があり、土の質感と釉薬の景色が素晴らしい逸品が多く見られます。
・種子島焼
鉄分の多い土に木灰を加え、うすい釉薬をかける素朴な風合いです。
江戸初期~明治35年で一度途絶えた住吉熊野地域の焼き物を、唐津焼の名門出身陶芸家・中里隆とともに1971年頃再興させました。
・紅毛、オランダ
江戸時代に通商のあったオランダ人を「紅毛人」と称したことから、小山富士夫は陶器調査で渡欧した際に目にしたオランダ陶器に着想を得て「紅毛」を製作しました。
・青白磁
透き通る青みのある白磁は人気が高く、今回お買取りの品物同様に高評価となる傾向にあります。
そのほか、備前焼・萩谷焼・呉須・刷毛目など多岐に渡っています。
小山富士夫の経歴と功績
陶芸との出会いまで
1900年に岡山県で生誕し一家で東京麻布へ転居、東京府中第一中学校を卒業した後一橋大学へ進学しますが、社会主義思想に共鳴して中退し、紆余曲折を経て陶芸に行きつくのは25歳の時です。
1923年に一労働者として蟹工船に乗船するも関東大震災のため帰国、帰路で困窮老人に給与を全額渡すなど、キリスト教のもと育った博愛精神と寛大さに満ちた人物として逸話が伝えられています。
同年近衛歩兵に一年志願入隊した際、同期生として国立近代美術館館長・岡部長景子爵の弟、岡部長世に出会い、彼の陶器好きから関心を持ちました。
翌年除隊後は上野図書館で館蔵の陶磁器関係書を読破し、友人の紹介で瀬戸の矢野陶々に弟子入りし陶芸の世界に入ると、矢継ぎ早に進展していきます。
小長曾古窯を訪れたことから古陶磁研究に傾倒し、次に陶芸家であり古当時研究家の真清水蔵六に入門、京都山科街道沿いの須恵器窯址の探査を行いました。
1926年に中国・朝鮮半島の旅行から戻ると京都に居宅を借り、独立して作陶を始めます。
幸運にも、石黒宗麿が自宅向かいに転居し交流を深める運びとなり、唐三彩の試作など活発な交流を続け、1930年に京都大丸で石黒宗麿と二人展を開催します。
そこで「東の廬山人、西の半泥子」とも言われる川喜多半泥子が小山富士夫の作品を買上げる快挙となり、同年古陶磁研究を志して上京します。
陶磁器研究の盛期
東洋文庫に通うなかで当時在日していた郭沫若や江上波夫、三上次男ら東洋考古学者と親交をもって探求し、1930年の東洋陶磁研究所の設立とともに所員として勤めます。
在職中は古窯調査団として美濃・瀬戸・常滑の調査や、日本の六古窯の再発見、横河民輔の中国陶磁コレクションの整理を一任し、雑誌「陶磁」にて論文を発表し始め活躍を広げました。
奥田誠一に推挙され文部省宗教保存課国宝調査室嘱託に任官されますが程なく辞し、国宝調査室の田沢金吾との薩摩古窯の調査や、中国東北旅行で遼陽缸官屯古窯、撫順大官屯古窯を調査するなど東奔西走します。
1941年、中国古窯調査旅行に再び出かけ河北・河南・山東・内蒙古へ及び、この時幻の定窯古窯址を発見しました。
再び作陶中心の生活へ
文化財保護委員会調査官としても功績を残しますが、1960年の文化財・美術界の大スキャンダルである永仁の壺事件で引責辞任します。
その後鎌倉に拠点を置き、古陶磁研究書などの著作執筆に集中、長男であり陶芸家の小山岑一とともに「永福窯」を築窯して1964年から本格的に作陶をはじめます。
また出光美術館開館の陶片資料室設置や、日本陶磁学会と日本工芸会の設立にも寄与し、後世にのこる功績を残しています。
中国朝鮮にはじまり世界格国の陶芸・古陶磁に精通していた小山富士夫は、あらゆる種類の陶芸窯を借りて自作を製作したこともあり、作風は多岐に渡っています。
最終的に美濃焼産地の近い土岐市に1972年「花の木窯」兼自宅と拠点を移し、自然豊かな山里で1975年に没するまで作陶を続けました。