若林奮(わかばやし いさむ)は彫刻家として活躍しながら700点に及ぶ銅版画も残しています。
彫刻の素材に鉄を用いて独特な表現を追求し、30代で大規模な個展を行うなど長く評価されている作家です。
一貫した彫刻への情熱から美術全体に通じる美学を築き上げ、武蔵野美術大学と多摩美術大学で教鞭をとり美術教育でも活躍しました。
若林奮の銅版画・ドローイングお買取りいたします!
彫刻科・若林奮の作品のうち、中古美術市場に出回るのは銅版画・作品集・ドローイングが主流となっています。
今回お買取りした銅版画と書籍はいずれも下記の通り希少な品物でした。
・銅版画 各限定52部 6点
・1987年 東京国立近代美術館 個展図録
・1959-1987年 彫刻作品総目録
・1988年 北九州市立美術館 個展図録
そのほか高価買取が期待できる若林奮の作品には、
1992年の銅版画集「Six Stop」、
「AIRS」「UNDERWOOD」「BlackCotton」
などをはじめとした、数十枚の限定で刷られた希少性の高い銅版画・ドライポイント・リトグラフ作品、肉筆であるドローイングが挙げられます。
若林奮の彫刻 前半期
若林奮は東京藝術大学彫刻科に在学中に彫刻に鉄を使いはじめ、卒業制作でも粘土・石膏の人物像という主流から大幅に逸れた、鉄による抽象作品を提出しています。
当時は木などで形態を作り、その表に薄い硬質の素材として鉄板を張り付ける手法でした。
鉄を扱う技量や環境が習熟するにつれ、二科展に出品する頃には鉄そのもので全体を仕上げるようになり、「鉄は自由に形態を作るに十分な可塑性を持つ」と語るに至ります。
作風は既成概念への反発や社会への反抗心の表れる、新進作家らしい鋭敏さが際立つ時期となりました。
1960年代後半になると鉄を使いこなし形態表現の幅が広がり、鉄の質量と物語性を感じさせる幻想的とも言える作風へ進化します。
1970年代 最盛期のひとつ
1970年ころ若林は壁にぶつかった時期がありましたが、彫刻家の淀井敏夫を父にもつ美術家・淀井彩子と結婚します。
淀井彩子は東京藝大大学院修了後にフランスへ留学し、留学中に訪れたエジプトの風土に強い衝撃を受けていました。
翌1972年に若林もエジプト・ギリシャを初めて旅行して古代の遺跡に出会い、1973年の個展のあと文化庁芸術家在外研修生として1年間パリに滞在します。
在仏中にフランス・スペインの旧石器時代の遺跡を訪れ、遺された作品の周辺に感じ取る失われたものに着目、独自の視点から多大な影響を受け美術哲学を醸成する土台となりました。
若くして彫刻家としての成功を納めた若林は、1973年の個展開催で若林奮を広く世に知らせる契機を作った学芸員・酒井忠康との出会いと、彼を通じた詩人との交流のなかでさらに独自の美術観と自然観を深めます。
それらは抽象表現の中に明確に生き、1977年の傑作「振動尺」シリーズに結実しました。
後年の活躍へ
1980年と86年にベネチア・ビエンナーレへの出品、1984年に武蔵野美術大学の教授を退官する前後も旺盛に個展を開催し、1987年には東京国立近代美術館にて大規模な回顧展を行い全国へ巡回しました。
1995年には素描を中心として再び近代美術館で個展を行い、この時期は東京西部の日の出町ごみ処理場建設反対の活動にも加わり、多摩武蔵野の自然の中で美術と自然の哲学を育んだ若林は抗議の屋外展示作品「森の中の一角獣座」を制作しています。
90年代の若林は海外での個展が多く、1990年から翌年にかけてシカゴ現代美術館をはじめ米国・カナダを巡回し、1997年と翌年にドイツのマンハイム、アーヘンで個展を開催します。
日本でも1997年の巡回個展ののち、2002年に豊田市美術館で開催した展示は、素描、60年代の初期作品から近作までを網羅した最大規模の回顧展となりました。
この評価を受け翌2003年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、同年開催の個展が存命中の最後回となり、開催翌月に逝去されました。
亡くなる年に始まった屋外彫刻「Valley」のプロジェクトは2007年に完成し、弊社の所在地でもある神奈川県横須賀市の横須賀美術館に納められています。