今回いわの美術は西村計雄の箱絵をお買取り致しました。
西村計雄は1909年に和菓子職人の息子として北海道に生まれます。
幼少期の頃から絵を描く事が好きだった西村計雄は、画家を夢見て20歳で東京美術学校に入学し、藤島武二教室にて絵を学びます。
29歳で結婚し3人の子宝に恵まれてからは、家族がテーマの作品を数多く描き、戦後から渡仏する1951年まで早稲田中学・高校の教師を務めました。
東京で教師をする傍ら画家として活動を行っていましたが、日本での作品制作に限界を感じた西村計雄は、家族を置いて42歳の時に単身フランスへ渡ります。
海外では無名の画家でしたので、最初はとても貧乏な生活を送っていましたが、現地で交流をしていた坂口謹一郎という農芸化学者の紹介でピカソの育ての親とも言える画商のカーンワイラーと知り合います。
画商のカーンワイラーによって西村計雄の作品は徐々にフランスで注目を浴び、個展が開けるようにまでなり、1955年に長女、1961年には家族全員パリで生活できるようになりました。
64歳では「ヒロシマ」というタイトルの300号にもなる大作を広島市の平和祈念館に寄付、1978年から沖縄平和祈念堂に飾る300号の連作20点を8年かけて作り上げ、沖縄平和祈念堂内の全壁面に飾られています。
1991年には長女の家族と日本で暮らす為住居兼アトリエを建設し、翌年日本に帰国します。
その後これまで製作してきた作品が評価され、日本に帰国した同年北海道の岩内町にある荒井記念館の2号館に西村計雄美術館がオープンされました。
84歳になると、お菓子の箱や木に作品を描く「箱絵」と言う物を作るようになり、以降長女の家族と暮らしていたアトリエで作品制作に明け暮れていましたが、2000年老衰の為息を引き取りました。
西村計雄 箱絵
今回お買取りしたお品物は西村計雄の箱絵という作品になります。
こちらの箱絵は、上記にも記載したように84歳頃から作られるようになったお品物です。
実際に品物を見てみると、くしゃくしゃにした紙を貼ったような物に絵が描かれていて、裏から見ると箱の蓋になっている事が確認出来ます。
また、箱の蓋には雪が積もった山が豪快に描かれていて、迫力のある作品へと仕上がっています。
そして、箱の蓋の色が少しオレンジっぽい色合いなので、夕日のように見えて作品に華やかさがプラスされます。
こちらのお品物は、頂き物だったそうですが飾る場所がなく処分に困っていた山梨県の方から宅配でお買取り致しました。
弊社いわの美術では、西村計雄の作品や、それ以外にも様々なお品物をお買取りしております。
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