今回いわの美術では雲林院寶山の青磁染付山水中筒をお買取り致しました。
雲林院寶山とは室町時代後期から代々続く粟田焼(京焼)の名家・雲林院家の通名です。
朝廷や幕府の御用窯として粟田焼の中心的役割を担いました。当代で二十代目となっております。
箱とお品物ともに大変綺麗な状態でしたので高価買取させて頂きました。
作家について
初代雲林院要蔵は1555年(弘治元年)頃、滋賀県の信楽から京都洛北に出て窯を築き、賀茂神社の神器などを制作したと言われています。
粟田に窯を移したのは1645年(正保2年)頃で、七代雲林院文蔵の時でした。
九代雲林院安兵衛から「寶山」と名乗り始めるのですが、当時九代目は粟田天王社の神職も勤め、別当の湛海寶山律師に師事したことで名を贈られたと言われています。
江戸時代後期には幕府を始め、岡山と鳥取の池田家や長崎の宗家などを得意先に持ち、御用窯としてたくさんの作品を制作しました。中でも十六代雲林院文蔵は粟田青蓮院宮より「泰平」の号を授かり「泰平宝山」と名乗って活躍し、明治維新後は海外貿易に力を注ぎ、晩年五条坂に窯を移しました。
その後十七代雲林院熊之助は有栖川宮から「昌平」の号を、十九代雲林院泰之佑は臨済宗の相国寺派管長橋本独山から「髙臺」の号を贈られています。
また歴代雲林院寶山の下には上田秋成、青木木米、高橋道八、尾形周平、小田垣蓮月などが教えを乞い、京焼の発展に大きな影響を与えました。
当代の二十代雲林院昭行は十九代目の長男として生まれ、京都市立工芸試験所にて釉薬・製陶技法を学んだあと、父の仕事を手伝いながら田能村直外を師事し水墨画漢詩を勉強しました。現在も第一線で活躍しており、品格と個性光る作品を制作しています。
このように雲林院寳山は京焼の源流を成すものであり、寳山の歴史は京焼の歴史そのものと言っても過言ではありません。
粟田焼について
室町時代から江戸時代にかけて、京都には諸国と結ばれた七つの街道がありました。その出入口を京の七口といい、そのひとつに「粟田口」があります。当時その周辺で生産されたやきものを粟田焼と呼んでいました。現在は京焼のひとつとされています。
瀬戸の陶工だった三文字屋九右衛門が1624年頃に始めた粟田焼が最も古いとされ、江戸時代以降は青蓮院の保護のもと発展しました。
明治・大正時代には薩摩焼の金襴手技法に京都ならではの意匠を織り込んだ作品である「京薩摩」が制作され、これが海外で人気を博し輸出の黄金時代に入ります。
ですが1927年(昭和2年)の世界恐慌、二度の世界大戦で大きな痛手を受けた粟田焼は産業として終わりを迎え、さらに三代目伊東陶山、楠部彌弌が亡くなって以降完全に途絶えてしまいました。
現在は祖父の代に窯元だった安田浩人が途絶えていた粟田焼の復興に尽力し、作陶生活を続けています。
茶道具のお買取りならいわの美術へ
今回ご紹介させて頂いた雲林院寶山の作品はもちろん、茶道具・懐石道具・洋食器・絵画など幅広くお買取り致しております。付属品の有無、お品物の状態で査定額が変わる場合がございますので、お客様ご自身で判断される前にぜひ一度ご相談ください。
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