【萩原守衛(荻原碌山)】買取作家・取扱い一覧 彫刻

萩原守衛(荻原碌山)

萩原守衛(荻原碌山)
萩原守衛(荻原碌山)(1879~1910)
長野県出身の明治期に活躍した彫刻家です。
本名を守衛(もりえ)、号は碌山(ろくざん)といい、日本の近代彫刻界に革命をもたらしたとされ、その背景には一人の女性の存在があったといわれています。
 
幼い頃から病弱だった荻原碌山は読書や絵を描いて過ごす事が多かったそうです。
そんなある日、この地域では珍しい恰好をした女性に声を掛けられました。
この女性は尊敬する郷里の先輩・相馬愛蔵の妻・相馬黒光でした。
相馬黒光との出会いは荻原碌山に文学や芸術などの未知なる世界の知識を与え、やがて洋画家を目指すようになります。
 
本格的に絵画の勉強をしようとアメリカ・ニューヨークへ渡り、アルバイトをしながらアカデミーで西洋画の基礎を学び、この時にデッサン力も磨きました。
特に人間に強い関心を抱き、目に見えない骨格や筋肉の動きなどを研究し、肉体を写し取ろうと考えていました。
そんな矢先、フランス・パリで見たオーギュスト・ロダンの「考える人」に感銘を受けます。
ロダンの作品は荻原碌山が求めていたものと一致しており、この時初めて彫刻家を志す事を決意しました。
こうしてアカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学し、学内のコンペティションではグランプリを獲得するほどの実力を身につけ、次々と作品を制作していきました。
 
帰国後は東京・新宿にアトリエを構え、活動を開始すると荻原碌山の運命を変えた女性・相馬黒光と再会します。
こうして、相馬夫妻との家族ぐるみでの付き合いが始まりますが、それは相馬黒光との決して許されない苦しい恋の始まりでもありました。
相馬黒光の夫・相馬愛蔵は仕事で家を空ける事が多く、留守の時は荻原碌山が父親代わりとして相馬家を出入りしてた事もあり、相馬愛蔵の浮気を知ります。
それを知った荻原碌山の心は激しい炎のように燃えはじめ、相馬黒光に対する行き場のない思いを作品にぶつけるようになります。
こうして制作された作品が「文覚」「デスペア」という作品で、どちらも高い評価を受けています。
 
その後も相馬黒光をモデルにした作品を次々と発表しており、愛憎を表現したものだけではなく、段々と相馬黒光の母として妻、女としての強さを表現した作品も制作しており、現在でも高く評価されています。
しかし、まだまだこれからという時に元々病弱だった事もあり、愛する相馬黒光のもとで30歳という若さでこの世を去りました。

萩原守衛(荻原碌山)年表


1893年 東穂高高等小学校を卒業、家業を手伝う
1894年 東穂高禁酒会に入会し、相馬愛蔵・井口喜源治らの強い影響を受け、キリスト教に志向する
1896年 心臓を病む
夜学会に入会する
1897年 相馬黒光の家で初めて油絵を見る
1898年 機業家になろうとして出奔し、桐生方面へ向ったが上田から連れ戻される
研成義塾が創立され参加する
禁酒会の幹事に選ばれる
1899年 初めて井口喜源治らと上京し、巌本善治を訪問する
植村正久らの説教を聞く
画家になろうと志し巌本善治氏を頼って明治女学校の校地内に住む
画塾不同舎に入り小山正太郎に学ぶ
1900年 明治女学校校地内の林の中に守衛専用の小舎を建て、深山軒と名付ける
1901年 アメリカ・ニューヨークへ渡る
アート・スチューデンツ・リーグに入学する
1902年 チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学ぶ
1903年 フランスへ渡り、パリで中村不折に会う
脱竜窟と自ら名づけた屋根裏の小部屋に住み、アカデミー・ジュリアンに通学する
1904年 サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの『考える人』を見て深く感動する
彫刻家を志すようになる
1906年 アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入る
碌山の号を用いはじめる
1907年 帰国する
1908年 新宿にアトリエを建てる
1909年 文展に出品する
1910年 柳敬助の画室を設計監督する
4月20日の夜、新宿中村屋で吐血し、逝去

1879年 長野県で生まれる

1893年 東穂高高等小学校を卒業、家業を手伝う

1894年 東穂高禁酒会に入会し、相馬愛蔵・井口喜源治らの強い影響を受け、キリスト教に志向する

1896年 心臓を病む

00000年夜学会に入会する

1897年 相馬黒光の家で初めて油絵を見る

1898年 機業家になろうとして出奔し、桐生方面へ向ったが上田から連れ戻される

00000年研成義塾が創立され参加する

00000年禁酒会の幹事に選ばれる

1899年 初めて井口喜源治らと上京し、巌本善治を訪問する

00000年植村正久らの説教を聞く

00000年画家になろうと志し巌本善治氏を頼って明治女学校の校地内に住む

00000年画塾不同舎に入り小山正太郎に学ぶ

1900年 明治女学校校地内の林の中に守衛専用の小舎を建て、深山軒と名付ける

1901年 アメリカ・ニューヨークへ渡る

00000年アート・スチューデンツ・リーグに入学する

1902年 チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学ぶ

1903年 フランスへ渡り、パリで中村不折に会う

00000年脱竜窟と自ら名づけた屋根裏の小部屋に住み、アカデミー・ジュリアンに通学する

1904年 サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの『考える人』を見て深く感動する

00000年彫刻家を志すようになる

1906年 アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入る

00000年碌山の号を用いはじめる

1907年 帰国する

1908年 新宿にアトリエを建てる

1909年 文展に出品する

1910年 柳敬助の画室を設計監督する

00000年4月20日の夜、新宿中村屋で吐血し、逝去


萩原守衛(荻原碌山)代表作

『坑夫』

『文覚』

『北条虎吉像』

『女』

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