長野県出身の明治期に活躍した彫刻家です。
本名を守衛(もりえ)、号は碌山(ろくざん)といい、日本の近代彫刻界に革命をもたらしたとされ、その背景には一人の女性の存在があったといわれています。
幼い頃から病弱だった荻原碌山は読書や絵を描いて過ごす事が多かったそうです。
そんなある日、この地域では珍しい恰好をした女性に声を掛けられました。
この女性は尊敬する郷里の先輩・相馬愛蔵の妻・相馬黒光でした。
相馬黒光との出会いは荻原碌山に文学や芸術などの未知なる世界の知識を与え、やがて洋画家を目指すようになります。
本格的に絵画の勉強をしようとアメリカ・ニューヨークへ渡り、アルバイトをしながらアカデミーで西洋画の基礎を学び、この時にデッサン力も磨きました。
特に人間に強い関心を抱き、目に見えない骨格や筋肉の動きなどを研究し、肉体を写し取ろうと考えていました。
そんな矢先、フランス・パリで見たオーギュスト・ロダンの「考える人」に感銘を受けます。
ロダンの作品は荻原碌山が求めていたものと一致しており、この時初めて彫刻家を志す事を決意しました。
こうしてアカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学し、学内のコンペティションではグランプリを獲得するほどの実力を身につけ、次々と作品を制作していきました。
帰国後は東京・新宿にアトリエを構え、活動を開始すると荻原碌山の運命を変えた女性・相馬黒光と再会します。
こうして、相馬夫妻との家族ぐるみでの付き合いが始まりますが、それは相馬黒光との決して許されない苦しい恋の始まりでもありました。
相馬黒光の夫・相馬愛蔵は仕事で家を空ける事が多く、留守の時は荻原碌山が父親代わりとして相馬家を出入りしてた事もあり、相馬愛蔵の浮気を知ります。
それを知った荻原碌山の心は激しい炎のように燃えはじめ、相馬黒光に対する行き場のない思いを作品にぶつけるようになります。
こうして制作された作品が「文覚」「デスペア」という作品で、どちらも高い評価を受けています。
その後も相馬黒光をモデルにした作品を次々と発表しており、愛憎を表現したものだけではなく、段々と相馬黒光の母として妻、女としての強さを表現した作品も制作しており、現在でも高く評価されています。
しかし、まだまだこれからという時に元々病弱だった事もあり、愛する相馬黒光のもとで30歳という若さでこの世を去りました。