江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人です。
作品はあまりにリアルなため、木彫りの動物たちが夜な夜な歩き出したという伝説を持っています。
そんな左甚五郎がなぜ伝説的とされているのかと言うと、日光東照宮の眠り猫をはじめ、左甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近く存在しています。
しかし、その制作期間が安土桃山時代~江戸時代後期までの300年にも及んでいる事、出身地も様々な説がある事から、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞として使われていたと考えられています。
また、左甚五郎という名は、地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされた、もしくは左利きであったために左という姓を名乗ったという説もあります。
そんな左甚五郎の中ではっきりと記録に残されている人物がいます。
その人物は足利家臣伊丹左近尉正利を父として播州明石に生まれており、京伏見禁裏大工棟梁遊左法橋与平次の弟子として技術を学んだとされています。
その後、江戸へ向い、徳川家大工棟甲良豊後宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げました。
更に江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために刺客に襲われますが、これを見事撃退し、老中・土井大炒頭利勝の女婿である讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに亡命します。
ほとぼりが冷め、京都へ戻ると師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命したと記録されています。
もちろん、この事に異論を唱える者もおり、左甚五郎は飛騨出身の複数の職人の内の一人で、またその複数の職人の逸話が統合され一人の左甚五郎という人物像を作り上げたと主張しています。
現在も落語や講談で左甚五郎の逸話はおもしろおかしく脚色して語られているため、真実を見つけ出すのはほぼ不可能とされています。