大分県出身の大正~昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
八咫烏を意匠とする大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)のシンボルマークをデザインした事で知られています。
その他には昭和六年乃至九年事変従軍記章、支那事変従軍記章、従軍記章も手掛けており、その実力が高く評価されていた事が分かります。
生徒や弟子は多い事で有名ですが、内弟子はたった一人を除いてはとらず、その理由としては唯一の内弟子が戦争により召集され、戦場で亡くなってしまった事が理由だと言われています。
5人兄弟の末子として生まれた日名子実三は親の勧めで慶應義塾大学理財科に進学しましたが、中退し、東京美術学校彫刻科塑像部に入学します。
その後、東京美術学校で研鑽を積んだ日名子実三は首席で卒業し、「東洋のロダン」と呼ばれた朝倉文夫に師事し、東台彫塑会の新人として将来が期待されていました。
何度か東台彫塑会で出品を重ねますが方向性の違いから独立して斉藤素巌とともに構造社を結成します。
構造社は裸婦像ばかり制作する彫刻に物足りなさを感じ、彫刻と建築の総合を目的として結成したもので、日名子実三は応用彫塑への活路を示し、抽象的な作品も手掛けるようになりました。
そして帝展改組にあたり、第三部会を組織するなど彫刻界を変えようと尽力しました。
また、メダル制作の精巧な技術を習得するためにイタリア、フランスへ遊学し、帰国すると構造社を脱退して記念碑、記念メダルなどの制作に力を注ぐようになります。
大日本蹴球協会の「シンボルマーク」に関しては、現在の「日本サッカー協会」にも受け継がれ、日名子実三がデザインしたシンボルマークをもとに「日本代表エンブレム」が作られ、日本代表のユニフォームなどに使用されています。