茨城県出身の大正~昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
古代ギリシャのテラコッタに魅了され、アルカイック彫刻を作品に反映させた事で知られています。
また、大胆にデフォルメされた裸婦像も多く手掛けており、当時の若い彫刻家にも大きな影響を与えました。
「作家は自分の作品で勝負すること。売ろうと思うな、売れそうな作品を作るな。まず自分の作品を作れ」という言葉を残しています。
生家は代々医者を生業としており、その4人兄弟の末っ子として木内克は生まれました。
絵を描く事が好きな少年時代を過ごしており、芸術には強い関心を持っていました。
水戸中学五年生在学中の夏、帰省中の東京美術学校彫金科教授の海野美盛の指導を受けると彫刻に興味を示します。
その後、海野美盛と相談し、卒業を目前にした20歳の時に退学して、朝倉文夫の塾生となり彫刻家の道に進みます。
24歳で文展に初入選を果たすと毎年入選を続けるなど、早くから彫刻家としての才能を発揮していた木内克は、渡欧し、パリにあるグラン・ショミエール研究所へ通い、アントワーヌ・ブールデルの指導を受けました。
パリに滞在中、古代ギリシャのテラコッタの作風に強い衝撃を受けた木内克は、テラコッタの技法を学び、作品に反映するようになります。
また、パリ郊外の陶芸家エドモン・ラシュナルのアトリエで初めて陶芸を試みた事がきっかけで、藤田嗣治、原勝郎らとラシュナルの展示会に招待出品する事になりました。
彫刻家として海外でも順調な生活を歩んでいた木内克ですが、世界大戦の影が迫り、帰国を余儀なくされました。
帰国後は東京上野にアトリエを構え、二科展を中心に作品の発表を行うようになり、戦時中は目立った活動は行いませんでした。
戦後、松平須美子をモデルとしたエネルギッシュな作品を発表するようになり、その力強く新鮮な表現は戦後で疲弊していた世の中と若い作家たちに強い衝撃を与えました。
新樹会会員となってからは新樹会を中心に精力的に活動を続け、サンパウロ・ビエンナーレ展に出品するなど海外での活躍も見られ、木内克をテーマにした映画「土くれ」と「木内克とその作品」が制作されるなど、彫刻家としてその名を残しました。
ちなみに映画は文部省芸術祭記録映画部門の最優秀賞に選ばれています。