佐賀県出身の昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
日本を代表する具象彫刻家の一人として知られ、深い情緒性と力強さのあいまった作品を発表し、官展系作家として活躍を見せました。
特に戦後は日展の重鎮として日本彫刻界をリードした存在でした。
人物肖像、裸婦、動物などを中心にブロンズ作品、石膏作品のほか、陶器なども制作しており、幅広い作域も古賀忠雄作品の魅力の一つです。
幼い頃から図画、手工、習字などに優れた才能を見せていた古賀忠雄は、佐賀県立有田工業学校図案絵画科に入学しました。
在学中に日本画家・腹巻丹丘にその手腕を認められ、有田工業学校図案絵画科を卒業すると東京美術学校彫刻科塑像部本科に入学しました。
彫刻を専攻した理由は明らかになっていませんが、日本画を学んでいた素養もあり、古賀忠雄の生み出す作品は当時から注目されていました。
在学中に帝展に出品した作品が初入選となると、卒業後に東京・練馬にアトリエを構え、本格的に彫刻家として制作活動を開始します。
このアトリエでは彫刻作品以外にも陶器や絵画なども手掛けており、芸術家としての一面も感じさせてくれます。
その後も文展、日展と官展系の展覧会に出品を重ねると、帝国芸術院賞を受賞した事で、彫刻家としての確固たる地位を手に入れます。
戦後は日展において日展委員、審査委員、参事などを歴任し、日本芸術院会員として後進の指導にも尽力しました。
日展常務理事、日本彫刻会理事長、陶彫会会長などをつとめ、多忙でありながらも多くの作品を発表し続けたため、その作品の多くは郷里の佐賀県立美術館に隣接する佐賀城公園に「古賀忠雄 彫刻の森」として常設展示されています。