東京都出身の昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
人間の耳をモチーフにした作品を多数制作した事で知られており、何かに憑りつかれたように耳ばかりを作り続けました。
三木富雄自身は「私が耳を選んだのではなく、耳が私を選んだ」と述べ、アルミ合金やプラスチックを素材として左耳ばかりを作り続けました。
幼い頃から芸術に興味を持っていた三木富雄は、芸術家になる事を夢見ていました。
しかし、父親は芸術家になる事を反対しており、どうしても芸術家になりたいのならば「理容師の資格を取得する事」を条件に三木富雄が芸術家になる道に進む事を許しました。
三木富雄は東京公衆衛生技術学校に入学しますが半年後に退学し、その後中央美術学園通信教育部に入学しました。
しかし、美術の基礎的な学習が少なく、独学で技術を習得していきました。
読売アンデパンダン展に出品して作家としてデビューを飾ると画廊で個展も開催するようになります。
篠原有司男や荒川修作らが結成した前衛芸術グループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加はしませんでしたが、非常に親密な関係を持っていました。
そのため、この頃の作品は自動車のタイヤで作った巨大なオブジェやアスァルトを塗って燃やしたもの、無数に吊り下げた瓶を会場で破壊するなど、一般的には理解し難い芸術作品を展開していきました。
こうして1962年から人間の耳をモチーフにした作品の制作を始めるようになり、粘土や新聞紙で成形したうえに石膏を塗布した最初の耳の作品『バラの耳』を完成させました。
その後、巨大化された耳、複数の耳が規則的に配列されたレリーフ状の耳、直線的に切断し分割された耳、シルクスクリーンで刷った耳など、様々な耳の作品を作り続けるようになりました。
そんな三木富雄ですが、ニューヨークの滞在をきっかけに耳の作品から距離を置くようになり、廃物のオブジェやコラージュをもとにした版画や写真の制作を行い、国際的に活躍見せていました。