島根県出身の明治~大正時代に活躍した日本の彫刻家です。
一刀ごとに気合を込める「気刀彫」の彫刻方法を創案し、仏像や写実的な表現を得意としていました。
作風は新古典主義ともいえるロマンチックな想念を形にしている事が最大の特徴です。
商家で育った内藤伸は芸術に憧れを抱き、彫刻家を志して上京し、高村光雲に師事しました。
高村光雲は仏師としてもとても有名で、当時衰退していた木彫刻に西洋美術を取り入れ、写実的な作風を生み出した事で、日本の木彫刻に大きな革命をもたらしました。
そんな師のもとで木彫の基本を学び、東京美術学校に入学した内藤伸は、彫刻家としての実力を身につけていきました。
東京美術学校を卒業すると戦時中という事もあり、島根県浜田の歩兵第21連隊に入隊します。
内藤伸が彫刻を学んでいた事を知った連隊長は、隊と関係の深かった北白川宮能久親王の立像の制作を依頼し、内藤伸はこれを見事に彫上げました。
後にこの作品は内藤伸の手元に修復依頼という形で戻ってきており、修復作業を行い依頼主の元へ返しています。
戦争が終わると、文展を中心に出品を続け、官展系の木彫作家として指導的役割を果たしてきました。
日本芸術院会員となったある日、東郷青児が菓子折りを持って内藤伸のもとを訪ねてきました。
丁度、内藤伸は家を留守にしており、東郷青児はその菓子折りを孫に預け、「駅前の旅館に滞在していると伝えてくれと」とすぐに帰っていきました。
帰宅した内藤伸は東郷青児が持ってきた菓子折りを開きました。
するとそこには札束が入っており、これは東郷青児が日本芸術院会員になるための賄賂として渡してきたものだったという事が判明します。
東郷青児がなぜこんな事をしたのかというと、日本芸術院は定員制の会員であったため、誰かが亡くなった時だけ既存会員の推薦で新しい会員が選ばれるという仕組みを持っていました。
そのため、東郷青児は会員になりたくて日本芸術院会員である内藤伸のもとを訪れたのでした。
もちろん、内藤伸はこの札束をすぐさま東郷青児に返し、相手にしなかったようです。
このように日本芸術院会員として大きな影響力を持っていた内藤伸ですが、それ以外にも日本木彫会を設立して、作品に彩色を用いるなど、木彫の新たな可能性の追求を行いました。