北海道出身の大正時代に活躍した日本の彫刻家です。
写実に基づいた堅牢な構築生と内面表現に優れた作風で知られており、多くの肖像を手掛けてきました。
また、街中にも多くの野外彫刻を残しており、特に北海道旭川は「彫刻の街」と呼ばれ、彫刻家・中原悌二郎の原点となっています。
北海道釧路で荒物雑貨卸・小売業を営む中原家の9人兄弟の次男として生まれた中原悌二郎ですが、町の気質に馴染めず、厳しい父や兄のもとにいる事が苦痛に感じるようになりました。
叔父の家は子がいなかったため、9歳の時に自ら進んで叔父の養子となり一人っ子として養父母の愛を一心に受け、豊かな自然でのびのびと育ち、絵や歌が得意で人気者でもあった事から、友人に頼まれて武者絵を描いたりしていました。
この環境が中原悌二郎を後に、芸術家としての道を進むようになる要因の一つとなりました。
北海道庁立札幌中学校(現・北海道立札幌南高等学校)時代の美術教師の影響を受けると、本格的に画家を志すようになり、養父母の反対を押し切って17歳で上京します。
東京での生活は決して楽なものではなく、貧しさの連続でしたが、画家を志して猛勉強を続けていきます。
そんな中、ロダンの弟子として修行を積み、帰国した荻原守衛に出会いロダンの作品に魅せられ、彫刻家を志すようになりました。
しかし、当時の日本の彫刻界はモデルの外面だけを表現するものが評価されている時代で、中原悌二郎のように内面を表現し、外面は素朴で単純な造りになっているものは高い評価を受ける事はありませんでした。
そのため、経済的にも困窮しており、生活のために締め切った部屋の中でペンキ絵を描いていた事が原因で肺を患ってしまいます。
静養のために帰郷し、体調が回復してから再び上京した中原悌二郎は中村屋のアトリエで出会ったロシア人の青年ニンツァをモデルにした『若きカフカス人』という作品を未完成でしたが、太平洋画会展に出品します。
この『若きカフカス人』を見た彫刻家アントワーヌ・ブールデルは「これが彫刻だ」と絶賛し、小説家の芥川龍之介は「誰かこの中原悌二郎のブロンズ像の若者に惚れる者はいないか。この若者は、まだ生きているぞ」と高く評価した事で、多くの人々から高い評価を受けました。
しかし、肺を患った事は中原悌二郎にとって大きなリスクとなっており、32歳という若さでこの世を去ってしまいました。
中原悌二郎は長い時間をかけて制作した作品でも少しでも気に入らない箇所があれば自らの手で全て壊していました。
そのため、32歳という短い生涯という事もあり、残された作品は12点と少ないのですが、日本の近代彫刻史に欠かすことのできない彫刻家として高い評価を受けています。