石川県出身の大正~昭和時代に活躍した日本の彫刻家、文筆家です。
彫刻家としてはオーギュスト・ロダン、アントワーヌ・ブールデル、アリスティド・マイヨールといった近代彫刻の流れを吸収し、西洋的な人体造形が特徴的な作風を展開し、多くの作品を残しました。
文豪ロマン・ロラン、哲学者アラン(本名・エミール=オーギュスト・シャルティエ)、詩人ジャン・コクトーといった当時の一流の思想家、芸術家と交流を持っており、彼らを題材にした肖像制作も多く行いました。
また、文筆家としてはフランスの精神文化を伝える著述を多く残しており、多くの愛好家が生まれました。
高田博厚は弁護士の父親を持ち、父親の仕事の関係で福井県に引っ越してきました。
18歳で上京するまで福井で過ごした高田博厚は、東京美術学校に在学中の彫刻家・雨田光平の作品を見て初めて彫刻に触れ、文学、哲学、美術書に熱中する青春時代を過ごしました。
もちろん、東京美術学校を受験しますが失敗し、長年の付き合いを持つ友人から、彫刻家で詩人としても活躍する高村光太郎を紹介され、交流を深めながら独学で彫刻技術を習得していきました。
そんな中、白樺派に送られたロダンの彫刻作品を見て、強い衝撃を受け、ヨーロッパへの憧れを抱きます。
また、白樺派を通じて岸田劉生、中川一政、梅原龍三郎、武者小路実篤など多くの芸術家たちと親交を深めていきました。
東京外国語学校イタリア語科に入学した高田博厚ですが2年で中退し、イタリアの原書をミラノの本屋から直接購入し、独学で語学力を上げていき、アスカニオ・コンディヴィの『ミケランジェロ伝』を翻訳するまでとなりました。
その後、フランスへ渡り、ロダン、マイヨール、ブールデルらの作品を現地で感じ、ヨーロッパを代表する芸術家たちと交流を深め、ガンジーとも親交を深めました。
こうしてフランスでの滞在は20年以上におよび、多くの記事を日本へ送り、終戦直後はドイツで難民になるなど、生死の境をさまよう経験もしています。
帰国してからは東京にアトリエを構え、新制作協会会員、日本美術家連盟委員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師などをつとめ、九州産業大学芸術学部の創設に尽力しており、彫刻家としてはもちろん、執筆や講演活動も盛んに行いました。
晩年には制作活動に専念するために鎌倉市稲村ヶ崎に移り、「自分はまだまだ小僧だ」と語り、探究心を絶やす事なく制作活動を続けました。