東京都出身の明治~昭和時代に活躍した日本の彫刻家、洋画家、工芸家で、詩人としても活躍を見せ多才であった事で知られています。
彫刻は父・高村光雲譲りの高い技術力を見せていますが、高村光太郎の名で有名なのは、『道程』『智恵子抄』などの詩集です。
教科書にも多くの作品が掲載されており、近現代を代表する詩人として評価されています。
特に『智恵子抄』は妻であった女流洋画家・長沼智恵子がこの世を去ってからも30年に及んで2人の愛を綴った詩集として注目を浴びました。
仏師・木彫刻家として有名な高村光雲の長男として生まれ、作家名は「たかむらこうたろう」と読みますが、本名は「たかむらみつたろう」と読みます。
父親の影響とロダンの『考える人』の写真を見て衝撃を受け、彫刻家を志すようになりました。
東京美術学校を卒業すると白馬会の研究所へ通い、彫刻に必要なデッサンを学びました。
その後、アメリカ、イギリス、フランスへ美術の勉強のために留学しており、フランスのパリではシャルル・ボードレール、ポール・ヴェルレーヌ、ポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホに感銘を受け、過去に写真を見て衝撃を受けたオーギュスト・ロダンとは親交を深め、彫刻家としての精神を学びます。
帰国してからは、彫刻、絵画、詩の制作を勢力的に行い、岸田劉生らとヒュウザン会を結成し、洋画作品を出品していました。
一方で、詩は文芸雑誌「スバル」に投稿し、西洋美術紹介や評論などを掲載しています。
この時、詩の制作は盛んに行っており、初詩集『道程』を創刊してからは彫刻制作に専念するようになり、ブロンズ、木彫作品に秀作を残しました。
日本の彫刻界でその名が知られるようになっていた高村光太郎は、太平洋戦争中に戦意高揚を目的とした『大いなる日に』など戦争賛美の詩を発表しています。
この事はいくら時代のせいだったからと言っても、戦争遂行に協力した事を恥じ、弁明する事なく疎開先でもあった岩手県の山間に身を引きました。
そこは三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかない場所で 懺悔の謹慎生活を送りました。
そのため、帝国芸術院会員や日本芸術院第二部会員に推挙されましたが、いずれも辞退しており、あまり展覧会などに出品する事はありませんでした。
晩年は東京へ戻り、十和田湖畔に裸婦立像『みちのく』を完成させましたが、肺結核を患ってしまい、この作品が最後の作品となりました。